| ■〔映画評Vol.1〕『アメリカの夜』(1973/フランソワ・トリュフォー) |
本日のブログお披露目に先立って、「プレ・オープン」(2/26)なるものをさせて頂いたのですが、この時にご来訪いただいた美中年さんへのレス中に、「…いま、書きたいテーマと、書きたいけれど中々書けん!―というテーマが、止め処なく頭の中を巡っております。ともかく、左にたくさんのカテゴリーを立てたので、少しづつ埋めて行ければと思っています。」等と書かせて頂いたものです。 一週間経った今日まで、ほぼ同じ状況かもしれません。 *** さて、このブログを形作って行く最中で、はてさて、どんな看板・タイトル(ブログ名)を掲げようかと考えるのは結構楽しいものでした…。 まぁ、この2月始めには、10以上あったタイトル候補を「5」個くらいに絞っては行けたのですが、その5個ほどの中のひとつだったのが、「アメリカの夜」だったり…、 これは、フランソワ・トリュフォー監督が撮った、僕の愛してやまぬ映画作品の題名でもあります。 ―という訳で、今回は、拙ブログに於ける映画評の初めとして、 『アメリカの夜』について以前に纏(まと)めたものをお披露目いたします。(^^) 夢か現(うつつ)かの如き心地良さと切なさが交錯 映画中の登場人物が“映画狂”という設定って少なからずありますよね。 『アメリカの夜』(1973)という映画は、ニースの撮影所を主舞台に“パメラを紹介します”という、謂わば、映画中映画の撮影がクランク・アップするまでが、 映画監督、プロデューサー、女性スクリプター、化粧係、小道具係、往年の大女優、主演男女優、共演者、また、助監督、撮影監督、画面には姿が現れぬ“ジョルジュ”(―彼のその姿無き存在感は映画に絶妙のアクセントを生み、その旋律は映画人たちの営みすべてを慈しむかのような甘美さで映画を包み込む…)等々…のさまざまなレヴェルで映画から離れられないキャラクターたちを擁して紡がれて行く。 そう、この劇中に於ける最大の映画狂はトリュフォー扮するフェラン監督その人でしょう。ただ、ナタリー・バイ扮するスクリプターの映画熱、仕事熱が侮れませんし、助監督始めスタッフ、俳優たちが撮影に心身を捧げる姿の悉くが愛おしい。 もう、トリュフォーの映画熱、映画愛は『アメリカの夜』全編に於いて遍在する訳です。 この映画を端的に表すこと、あるいは、詳細に言葉で綴ることは困難かもしれません。 一方で、ほんのひとつの切り口でお喋りが尽きなくなるようにも感じます。(※例えば、僕がこの映画のヒロインであるジュリー/パメラに扮するジャクリーン・ビセットの美しさ、優しさ、可愛さ、性的魅力などを語り出せば単に止め処が無くなるばかりに違いない…。) さて、 僕が「いいなぁ」、「美しいなぁ」、「堪らないなぁ」と思う部分を三つ挙げると、 ―まず、 オープニング・クレジットが流れる画面。 ここでは、画面一杯をサウンドトラックフィルムの如くに見立て、左側にサウンドトラックを示す2本の縦線が示され、右側にクレジットが流れて行く。左側2本の縦線は音楽や人の声や雑音にシンクロしさまざまに形、太さを変えて行く。 そう、オープニング・クレジット中の映画音(サウンドトラック)が発生する現場(―おそらく、“ジョルジュ”指揮下の音合わせの現場)は映さず、 オーケストラが奏でる音、そして、“ジョルジュ”がオーケストラにあれこれ指示を飛ばしている声や指揮棒で譜面台を叩いていると思しき音等が、件のサウンドトラックを示す縦線を震わせ形を変えて示されて行く訳です。 オープニング・クレジットが流れ終わると、唐突に、一丁の拳銃を眼前にした若い娘が大写しとなったモノクロスチルが示され、キャメラがズーム・アウトするとそのモノクロスチルが全貌を現す。 そこに在るのは、何者かに拳銃を突き出されて恐怖に身を固めながらもその兇器を両手で取り押さえんとするかのようなドロシー、そして、部屋の隅で息を潜めてうずくまるリリアンの姿であり、また、ギッシュ姉妹が共演したサイレント映画中の一場面であることに間違いないでしょう。 この観る者の瞳に焼き付くかの如き力が迸(ほとばし)っているモノクロスチルが示されて行く無音の数秒間の最後に“リリアン及びドロシー・ギッシュに捧げる”というトリュフォーの署名入りの献辞が示される。 それは、その声が画面を震わすことの無かった、しかし、その姿がトリュフォーの心を繰り返し歓喜、感銘に震わせたであろう、サイレント映画に在る可憐なリリアン、ドロシー姉妹への狂おしくも純粋な讃辞だと思います。 *** ―ふたつめは、 フェランが“パメラを紹介します”中の仮装舞踏会の場面で使うための曲を電話口で聴くシーン。 ここで、フェランは受話器を片手に中々ご満悦な素振りで“ジョルジュ”が電話向こうから流す録音テープに聴き入り、同時に、空いているもう一方の手で小包を開き中身を机に積み上げて行く。 小包から姿を現すものは、ブニュエル、ドライヤー(Carl Theodor Dreyer)、ルビッチ(Ernst Lubitsch)、ベルイマン、ゴダール、ヒッチコック、ロッセリーニ、ホークス、ブレッソン等の名を冠した書籍群。 フェラン/トリュフォーは盟友たる“ジョルジュ”/ジョルジュ・ドルリューの奏でる音楽にこれら映画作家たちへの尽きせぬ愛情を重ね、こぼれんばかりに発露させている。 ハードワーク続きで心身の休まらぬフェランに刹那現れた至福のひと時は、その、音と映像が溶け合う甘美を以って僕を浄化させてくれる。 *** ―さらに、 3度に分けて劇中に挿入されるフェラン監督の夢のシーン。 その中身は伏せますが、3度目で、フェランが撮影期間中ベッドで魘(うな)されるように見ている夢の全貌があきらかになる。その瞬間は映画が大切な者ほど胸を衝かれてしまう瞬間かもしれません。 映画終幕、撮影が終わり撮影所から去って行く人々が示される。 この頃には夢か現かの如き心地良さに浸りきっていた自分自身に気づく。 映画が終わって行くという現実にただひたすら切なくもなっているのです…。 補足) ■リリアン・ギッシュ(公式HP) http://www.cmgww.com/stars/gish/index.html 〔当ブログ内の関連記事〕 ■〔映画評Vol.12〕『華氏451』(1966/トリュフォー) ■〔映画人物評Vol.2〕バーナード・ハーマン >>ジョルジュ・ドルリュー関連 ■〔映画雑談Vol.32〕マーティン・スコセッシ関連覚え書き―その2(音楽篇) ―& 新宿初のシネコン「バルト9」オープン、スコセッシの次回作と目されるストーンズのライヴ・ドキュメンタリー・フィルムについてのプチ・メモetc. 〔※本エントリーは、以下のサイトともリンク中〕 ** アメリカの夜@映画生活 |
by oh_darling66
| 2005-03-06 00:23
| ■ 映画評
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