| ■〔映画評Vol.16〕『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002/マイケル・ムーア) |
&『テルミン』鑑賞プチ・メモ 一週間ぶりの更新です、 いやはや、年末までのあれこれが不意に頭の中を過(よ)ぎるような時期ともなって来ました、 **年末調整の書類提出が今月末までですし、 **先週は、普段頻繁に会うことの出来ぬ友人などと、「来月辺り飲みに行こうか、あっ、忘年会になっちゃうな…」とでも云った会話を交わすことも有りましたし、 **あの、「年賀キャンペーン」のTV・CFをちょこちょこ目にしてしまうがゆえに、例年に無く早く、年賀状の準備を意識してしまったり(―しかし、あの小林さんも恐いや...^^))、 **お歳暮なんていう意外と気を遣う面倒くさい((^^)のもあるなぁ・・・・・・ ―しかし、気心の知れた仲間内の忘年会、飲み会だけは何度有っても楽しいものですよね! 御挨拶が遅くなりました(^^) 今週も沢山の方々の御来訪を頂き誠にありがとうございますm(_ _)m 虫歯を早く治して12月の各種忘年会に備えたいダーリン/Oh-Wellです。 *** ◆◆さて、 以前に『Mr.インクレディブル』(2004/ブラッド・バード)のエントリーでも触れましたように、 つい数年程前から比べて大分注目するようになり、実際に劇場鑑賞も、DVD鑑賞も増えて来ている映画ジャンルとして、アニメーション映画、そして、ドキュメンタリー映画が僕の場合は挙げられます。 アニメーション映画に於いては『ファインディング・ニモ』(2003)の鑑賞が、僕のこのジャンルに対するやや偏狭な捉え方を変えてくれた訳ですが、 ドキュメンタリー映画に於いては、『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002/マイケル・ムーア)の鑑賞が、このジャンルに俄然注目をして行く契機となりました、 本作を初鑑賞した際には、まず、作者自身の主観がこれだけ全篇に見えているドキュメンタリーが有ることに、そして、エンタテイメント的な面白さの乗ったドキュメンタリーが有ることに驚きがありました、 ただ、そう云った劇中に於けるさまざま意味合いでの作者の突出ぶりに多少戸惑いつつも、一方では、マイケル・ムーアの他者の言葉を待つ姿勢とでも云ったものも印象に残りましたし、 この作品以外にも『ロジャー&ミー』(1989)や『華氏911』(2004)と云ったマイケル・ムーア監督作品に向き合って、このムーアと云う人は、自分自身の映画作りのスキャンダラスな部分、胡散臭さ等にも可也自覚的なのではないかと僕なりに思えてもいます、 *** ◆◆また、『ボウリング・フォー・コロンバイン』の日本公開の2年前(2001年)に日本でも初公開され単館ロードショーながら可也評判を呼んだ『テルミン』/Theremin: An Electronic Odyssey(1994/スティーヴン・M・マーティン)も僕に取っては忘れ難いドキュメンタリー映画です、 この映画は、“テルミン”と呼ばれる世界初の電子楽器を発明した、レフ・セルゲイヴィッチ・テルミン/レオン・テルミン(Lev Sergeivich Termen/Leon Theremin:1896―1993)というロシア人の97年間の生涯の一端をさまざまな記録写真や映像、また、関係者の証言等を中心に示して行く訳ですが、 この映画中に紹介されているように、 テルミンが生み出す揺らめく電子音は、かのバーナード・ハーマンがスコアを担当した『地球の静止する日』(1951/ロバート・ワイズ)を含む、1940年代、1950年代に制作されたSF映画、スリラー・タッチの映画等でのサウンド・トラックにも効果音的に取り入れられ、 ![]() ビーチ・ボーイズの「グッド・ヴァイブレーション/Good Vibrations」のサウンド作りに使われ(―諸説あるようだが、映画中のブライアン・ウィルソン(※下Ph)へのインタヴュー・シーン中ではウィルソン自身が「「グッド・ヴァイブレーション」の全米No.1ヒットはテルミンとチェロのお陰だ」等と語っている)、 ![]() モーグ・シンセサーザーの開発者であるロバート・モーグ/ボブ・モーグ(1934―2005/※ムーグ・シンセサイザー、ロバート・ムーグの表記も多いが誤用とされる)にもその少年時代から多大な影響を与えもした、 ![]() ―そんな“テルミン”という楽器を発明した一人の天才肌の物理学者・発明家・チェロ奏者の、 1920年代後半にアメリカに渡って名声を得るものの、1930年代後半に当時のソ連によって母国に強制的に連れ戻されKGBの諜報活動にも従事させられた大波乱の人生が、映画後半で登場する****の姿と相俟って、僕の心を大いに掻き立てるものでした。 *** そうですね…、 『ボウリング・フォー・コロンバイン』が劇場公開された2002年以降にしたって、実際には、劇場公開されて来たドキュメンタリー映画を何よりも優先して観て来たというほどではありませんが、この2本は僕に取っては格別な面白さのあるものでしたし、何回か鑑賞しても尚インパクトを与えてくれるドキュメンタリー映画です、 ―という訳で、 今回は、『ボウリング・フォー・コロンバイン』について纏(まと)めたものを残して本エントリーの締めとさせて頂きます。 人間的理性を顧みさせて行くムーアの一途さ ***ネタバレ注意 『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002)という映画には、作者が画面に示したものと観客個々が漠然とにせよ見知っている部分とが交錯することで観客個々に思考を促すドキュメンタリーの一特質と、スクリーンを観る者を(巧妙に)騙しつつ愉楽に至らせる劇映画の美徳とでも云った両者を備えたところを見て取れる。 ![]() 作者たるマイケル・ムーアは、劇中示されるように、チャールトン・へストンが会長の任を負うNRA(National Rifle Association of America/全米ライフル協会)の永久会員だ。 ―そんな一米国人たるムーアの抱く「(ムーアが作品発表後のインタビューで口にするように、個々を見れば善良な)米国人が個々の怒りや憎しみを他者の命を奪うことで決着させてしまう短絡傾向の顕著」への葛藤、自責、羞恥の念が映画に終始垣間見れもする。 ![]() 隣人の銃暴力の恐怖とも自己(と家族の)防衛手段に銃を持つこと等とも、過去から現在、そして此の先当分に亙って無縁に思える僕自身が、『ボウリング・フォー・コロンバイン』という映画を観ながら胸が不吉に騒いだり、良心の葛藤なりを覚えたりしてしまうのは、画面に在る主に米国人たちの姿や言葉等を介して、生活、人生に纏(まと)わりつく憎しみ、怒り、エゴ、また、恐怖と云った感情なりが時に生々しく僕を刺すが故でもある。 ムーアの視線は対象に迫って尚そこから遊離しているかのようだ。それは、対象に取り組む真摯さが獲得し得た冷静さ、延いては、人間的理性を示すものかもしれない。 *** 映画を顧みれば、例えば、彼とキャメラが迫る人物なりに因って銃所持の問題、過去の銃撃事件等に於いて驚くべき真実性が画面に立ち現れることなど殆ど無かったようにも思い起こす。それでも、ムーアの真摯、一途な思考ぶりが画面に乗っているが故に観客は画面を見詰めながら感情、理性ともに掻き立てられて行く…。 劇中アニメーションに拠る「米国史」にしても、 ![]() 教会、警察、学者等によって嫌悪感と共に“ショック・ロッカー”等と口にされていたマリリン・マンソン(※下Ph)や“The Culture of Fear:Why Americans Are Afraid of the Wrong Things”の著者たる社会学者グラスナー教授等によって米国人に恐怖を煽る元凶の一つに劇中扱われていた「TV報道」の映像にしても、既に起こった事例群をムーアの主観も客観も混じえて再構築、再提示したものに過ぎないだろう。 ![]() 特に、劇中大量の「TV報道映像」は米国人の現実観を形成し得るものとして画面に示されていよう。 一方、劇中頻繁に示されるムーアと生身の人間の対峙を通して米国の現実に対する米国人や隣国のカナダ人の感情(的批評)が紡がれて行く。それらは僕にとって嫌悪や同調の別等はあっても注視するに値するものとなってくる…。 終幕近く、ある2人の高校生による無差別銃撃で後遺症を負った青年2人とムーアが、無差別銃撃犯が銃弾を購入した大手量販店の本社に出向き、銃弾を店舗に置かぬよう訴える件がある。ムーア等が諸手を挙げて喜ぶ顛末に、画面のこちら側の僕など然したる現実感を持ち得ないのだが、企業側当事者が2人の青年に残る傷跡(※一人は下半身麻痺で車椅子に在る)を眼前にしたことが、既に起こった暴力を企業に現実感として引き寄せ、延いては、企業倫理を顧みる縁とさせたであろう点は見捨て置けない。 ![]() ハリウッドのヘストン邸。 ある一室の椅子に身を沈めてムーアのインタビューを受けるヘストンの傍には嘗(かつ)ての主演映画をモチーフにしたデザインポスターとでも云ったものが2点置かれ、ムーア図らずして、フィクショナルな世界に大スターとして在るヘストンが際立つ。 そんなヘストンに現実認識を迫るムーア。その対峙は、奥行き感の浅い画面と相俟って息苦しいほどスリリングでもある。 此処では、訪問者たるムーアに誠意を手向けるヘストンの姿への僕自身の安堵感や、ヘストン(1924年生)がハリウッド映画という本来の表舞台で今後“NRA会長”以上に脚光を浴びる役どころに恵まれることはないのだろう…と云った個人的な雑念が画面に向き合う僕の中に巡って穏やかでは居られない。ムーアの問いに毅然と対処しつつも何処か痛々しいヘストンに胸掻き立てられもする…。 つまり、老いの最中に在るヘストンの姿に、『ボウリング・フォー・コロンバイン』中で僕にとって最たる現実感が迸(ほとばし)っている。 ヘストンはムーアが差し出す或る銃撃事件で亡くなった少女の写真を顧みる事無く自室に戻って行く。その後姿に劇中僕自身に沸き起こった様々な感情や葛藤による熱気が一旦終息もし、(ヘストンも僕自身も)暴力に命を奪われた人々に手向ける言葉を持ち得ぬことに苛立ちもする中、映画は尚一つの事件レポートを加えて終わって行く。 ![]() 注意) **本文中の最後のPhは、「第73回(2001年)アカデミー賞授賞式」会場前でのチャールトン・ヘストン。 **尚、チャールトン・ヘストンは、2003年4月にNRA会長職を辞任。 |
by oh_darling66
| 2005-11-20 03:41
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