| ■〔映画評Vol.14〕『死刑執行人もまた死す』(1943/フリッツ・ラング) |
こんばんはー 休みボケから完全脱却すべく((^^; 久々のエントリーです!! 今週も数多くの皆さんのご来訪に感謝しておりますm(_ _)m 数多くのTB、コメントを頂き誠にありがとうございます! 僕に取って、皆さんから頂く温かいコメントから学んでいる部分は多く、 また皆さんとのお喋りこそ一ブロガーとして最も楽しい部分です、 何にせよ((^^;皆さんから頂いたコメントへのお返事も遅め遅めに為っておりますが、追ってお返事をさせて頂きまーす!! *** さて(^^)、 僕は自分自身が好きな映画の傾向、要素というものを時おり考えてみることがあります、 ―単に好きな個々のタイトルを頭に思い浮かべて行くのでは、文字通り、取り留めが付かなくなってしまいますからね... >>その僕自身が好きな映画の要素を大まかに挙げてみますと、 1)まず、ジャンルが何であれ、主人公とヒロインがその映画の中で輝きを放っているもの(※彼らがスター俳優でなくても構わない)、 2)ストーリーを追うばかりのストレスが生じないもの、 3)2時間以内に納まっているものが望ましい、 4)……例えば、僕なども含めた本好きな人間というものが、一つには、文字/活字の流れを追うこと自体が愉楽なのだと云う部分があるかと思うのですが、 僕が映画に於いて心地良く感じるのは、何よりも瑞々しい映像の肌理に目を瞠る90分なり、100分なり、2時間ほどであること、 5)脚本というものに於いては、それは映画の骨子たるものだと思います、 ただ、あくまでも僕自身は、映画鑑賞後に「脚本がいい」という思いが強く残るものよりは、映像に浸れて陶然と出来たものの方が、自身に取って、長く心奪われる映画と相為って行くように思えています。 ―等と一応は書き表せる訳ですが、 僕に取って、上述した要素を良く満たしているものとなると、 もう、大雑把に言えば、1940年代のハリウッド映画や、1950年代から1960年代の日本映画に多くある訳なのです。 *** ![]() さてさて(^^)、 僕を長く虜(とりこ)にしている映画中の何本かを残してくれた映画監督の一人にフリッツ・ラング(1890―1976)があります。 今回は、その偉大な作品群中から、『死刑執行人もまた死す』(1943)について僕が以前に纏(まと)めたものをお披露目いたします。 素晴らしく映画的な後半部 ***ネタバレ注意 『死刑執行人もまた死す』(※2003年3月14日、完全版を初鑑賞)という映画は、ナチス占領下のプラハに於ける、時の総督ハイドリッヒ暗殺という史実をモチーフに、ナチスの狂気と非道、チェコ人の強靭さを描く。 ![]() 映画前半部はラングにしては間延び感があるが、彼の“映画快楽醸造手腕”とでも言えそうな演出力が生み出す活劇的な面白味を多少犠牲にしてでも、ナチス占領下のプラハの生活感、チェコ人気質といった部分をきちんと見せておきたかったのだろう。 一方で、前半までに小出しに見せた要素は、悉(ことごと)く後半から終幕にかけて回収され生かされつつ、映画的強度に収斂されて行くのだ。 僕は、ラング自ら脚本協力を依頼したというブレヒト(※高名な舞台作家であり、教育的作風を身上としたらしい)の原案、台詞部分が、制作過程で希薄になって行ったのではないかとも思う。 その結果として、描かれる内容とは別の次元で、前半の硬直した映像と後半の極めてラング的な強靭な生命感を湛えた映像との乖離が目立つのかもしれない。 *** 映画序盤、ヒロインのマーシャ(アンナ・リー)はハイドリッヒを暗殺した男スヴォボダ(ブライアン・ドンレヴィ)の逃走を助ける(※詳細省く)。 ![]() 彼女が自宅で寛いでいると、父親のノヴォトニー教授(ウォルター・ブレナン)が帰宅し、妻に「ハイドリッヒが撃たれた」と知らせる。「いつ、どこで」と問い返す妻への父親の返事を聞いていたマーシャは「私、その人(※不審な男)を見たわ」と口にする。 父親は努めて冷静に娘を自室に招き入れ、「いいか、この手の話は口にせんことだ。家族にも婚約者にもだ。お前がAに告げればBに伝わり、BからCに、CからDに…(中略)…そして、Fから最後はG、つまりゲシュタポに筒抜けになってしまうのだ」と諭す。 ここでは、映像にも増して、ノヴォトニー教授のある緊張感を伴なっての冷静な諭し振り、教訓的な言葉が強く浮き立つ。 一方、 映画後半は、主にノヴォトニー教授の言葉による教訓が匂い立つ前半に比べて、よりラング的な張り詰めた映像が紡がれて行き目が離せない。 映画終盤でいよいよノヴォトニー教授が処刑場へ連行される直前の父と娘との面会シーンの台詞はブレヒトの書いたものだろう。ここでは処刑を前にした教授が息子への伝言として“自由の価値”、“自分の死の意義”を娘に口述するが、娘が父親の語る言葉を要所要所復唱するあたりに教育的身振りが感じられる。 加えて、人質収容所で一人の労働者が書いた詩もブレヒトによるものかもしれない。詳細は措(お)くが、詩を書いた当人が処刑連行される場面、そして、ラストで、この抵抗の詩は繰り返される。 ただ、僕は、ブレヒト的な智慧(言葉)も、ラングによる前半の抑えた演出、後半の突き抜けた映画造形があってこそ、多くの観客の情緒に訴えるものとなったのだと思う。 *** 映画前半までに、ノヴォトニー教授はハイドリッヒ暗殺犯が判明するまでの400人程の人質の一人としてゲシュタポにより自宅から強制連行される。マーシャは「犯人は自首すべきだわ」と憤(いきどお)り(※詳細省く)、父を救いたい一念で自主的にゲシュタポに向かう。この辺りから、映画は緊迫感を増しつつスリラー色に変貌して行く。 ![]() 特に、ゲシュタポに仕えるチャカ(※ビール醸造会社のオーナー/ジーン・ロックハート)という男が、チェコ人同胞から“ナチスの犬”ゆえ“暗殺犯”に仕立てられて行く無残な顛末を核に据えての、地下組織とプラハ市民の結束の身振りを映画終幕に向けて収斂させて行くラングの辣腕が存分に発揮されての映画構築には痺れるばかり…。 ゲシュタポの3人(※片眼鏡の高官、痩身の慇懃な調査官、執念深いグルーバー警部)を伴う映像の悉(ことごと)くは身震いするほど素晴らしい。 彼らは、基本的に容赦無くチェコ人たちを締め上げて行くのだが、時にキリキリと締め上げた手綱を緩める。しかし、彼らはチェコ人に決定的な安心を与えはしない。 ![]() 特に、“痩身の慇懃(いんぎん)な調査官”の指をポキポキ鳴らしながらの尋問は、その影すらが人を威嚇(いかく)するような陰険さだ。 しかしながら、地下組織の工作に翻弄されて行く彼らを見ていると、その職務熱心さや焦り困憊(こんぱい)する姿に人間的な可愛らしさをも覚えてしまう。ここら辺はラングの突き抜けた人間描写の賜だろう。 ラスト、 プラハの街並みに重なるのは、 Not、(そして)―The Endの文字。 ここには、突き詰めれば、虐げられた者こそ「生き抜け」という突き抜けたエールが籠められているように思う。 〔当ブログ内の関連記事〕 ■〔映画雑談Vol.10〕愈々、この秋最初の3連休! ~**フリッツ・ラングの『メトロポリス』、ロン・ハワードの『シンデレラマン』を鑑賞予定です!! **訃報:中北千枝子(女優)、ロバート・ワイズ(映画監督) ■〔映画雑談Vol.4〕「脱力した時に心に効く映画10本・ダーリン篇」&『ライフ・アクアティック』鑑賞メモ |
by oh_darling66
| 2005-08-23 02:17
| ■ 映画評
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