| カテゴリ:■映画鑑賞メモ/鑑賞プチ・メモ |
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| (※エントリー予定)■〔映画鑑賞メモVol.18〕『クィーン』(2006/スティーヴン・フリアーズ) |
こんにちは、ダーリン/Oh-Wellです。 さて、GW前半最終日(4/30)。ここ東京は、昨日「昭和の日」(※今年から4月29日は「昭和の日」、5月4日は「みどりの日」となる|◆今日は何の日)にも増して快晴の青空に恵まれ、初夏のようなぽかぽか陽気です! ![]() さて、追って、ここには『クィーン(2006/スティーヴン・フリアーズ)』〔◆IMDb◆Movie Walker〕の鑑賞メモを書く予定なのですが、まぁ、GW中に完成させられれば良いかな^^とも思っています。そう、この『クィーン』という映画、僕に取ってはとても滋味深い映画でした。とても良いイギリス映画(※英仏伊合作)と出会えたなと素朴に思えています。 ![]() そう、私め、今年のGWは、GW明け、五月から六月に架けて三件の結婚式に呼ばれていることもあり少々倹約せねばなりませんので、昨年のように遠出はせず都内でのんびり過ごしています。後半は、箱根辺りにドライブにでも行きたいとは思っているのですがね…。 それにしても、明日、明後日の仕事が恨めしいですね。 これが、単に8連休の中での家でただぐったり出来るような中日=休息日であればとつくづく思えて来てしまいます...^^ ![]() そうそう、8連休以上の方もおられますよね。実に羨ましいです。 さて、昨晩は『バベル(2006/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)』〔◆IMDb◆Movie Walker〕を鑑賞して来ました。そして、今日はこれから渋谷へ出て『恋愛睡眠のすすめ(2005/ミシェル・ゴンドリー)』〔◆IMDb◆Movie Walker〕を観て参ります。買い物をして、映画を観て、食事をして…と、まぁ、のんびりとして来ます。 ![]() それでは、皆さん、良き休日、GWを!! |
| ■〔映画鑑賞メモVol.17〕『叫』(2006/黒沢清) |
こんにちは、ダーリン/Oh-Wellです。 いやはや、実に久々の更新です。・・・そう、あの『時効警察』〔◆公式サイト|※下Ph〕もおよそ一年ぶりに帰ってきた((^^)訳ですからね、僕も久々に更新いたしますヨー!(笑) ![]() そう...^^、私め、この4月の始め頃までは仕事の方も家庭内もあれこれと忙(せわ)しなく、ひと段落したらひと段落したで、しばらくはブログの更新よりも休息なり遊びなり家族なり^^を最優先させておりました、はい。そう、この4月は、映画館での新作映画鑑賞なども今年これまでに無く快調に本数をこなしていますので、書きたいものも多々出て来ました、はい。(笑) 昨日(4/20)は、仕事帰りに『サン・ジャックへの道(2005/コリーヌ・セロー)』〔◆IMDb〕を鑑賞して参りました。まぁ、実はこれが今月の4本目といったところなのですが、何にせよ、3月までに比べれば良いペースであると…。 ![]() ともかく、昨夜放映された『帰ってきた時効警察・第二話』〔◆公式サイト〕の録画を昼ごはん前に早く観てしまいたいので^^(―このTVシリーズのファンからは屈指の支持を得ているであろう三木聡の脚本・演出で、ゲストは市川実和子!)、取り急ぎ、18日ぶりの更新をさせて頂きます。 今回のエントリーは、昨日観たばかりの『サン・ジャックへの道』……では無く、 そう、「時効を迎えた事件を趣味で捜査する男、霧山修一朗」よろしく、「劇場公開が終わった映画を趣味であれこれ書く男((^^;ダーリン/Oh-Well」とでも開き直って、劇場公開最終日(4/6)に駆けつけようやく鑑賞が叶った『叫(2006/黒沢清)』〔◆allcinema ONLINE〕についてゆるゆると書きまとめておきます。尚、一度観ただけですので記憶違い等々あるかと思いますが、そこいら辺りはなにぶん御容赦頂ければと存じ上げますです。・・・ハイ。((^^) ![]() 映画冒頭。真夜中の東京湾岸の一角で男が赤い服の女に掴み掛かっている。仕舞いに、男はその女の顔を水溜りに押し付け絶命させクルマで立ち去って行く…。 ![]() 続いて、主人公・吉岡(役所広司)の部屋が映される。主人公は突如の大きな揺れに目を覚ましてソファから起き上がる。部屋に居た女性・春江(小西真奈美)が「結構大きかったね。今の地震」と口にする。 朝を迎え、春江は「じゃあ、また来るから」と言い残して主人公の部屋(―古びた、おそらくは、公営アパートの一室)を出て行く。 映画は刑事の吉岡が冒頭の殺人現場に近づいて行くショットに続く。彼と一緒に現場に向かって歩く同僚の宮地(伊原剛志)が「何だ、この泥濘(ぬかるみ)は」と口にすると、吉岡は「今朝の地震で液状化現象を起こしたんだろう」などと返す。ここは東京湾岸の埋立造成地だ。 殺害された赤い服の女が担架に乗せられる。茶色く濁った水が女の口から流れ出る。署に戻った主人公は宮地から「溺死だ」と検死結果を知らされる…。 ![]() 『LOFT ロフト』(2005)に続く黒沢清監督の新作『叫』は、劇中登場人物の台詞にもあったように、何かが「造っては壊される」ような、或いは「造るでもなく壊すでもなく」放置されがちな場であり、地質としても地盤から海水が時おり沁み出してくるような場である東京湾岸地域という不安定な地場を主舞台に置く幽霊映画であり、また、忘却についての映画であり、罪の報いと償いについての寓話に思える。 そう、映画の主たる背景となる少し大きな地震の度に地中から海水が沁み出て来るような湾岸埋立地という場、水溜りと泥濘(ぬかるみ)、水路、埋立地に接する大きな水溜りのようにも見て取れる淀んだ海…、廃屋となった嘗(かつ)ての精神病患者療養所の床一面を浸す水、盥(たらい)やバスタブに張られた海水、また、医師が息子を殺害するための液薬、地震で目を覚ました主人公が冷蔵庫から取り出して飲むミネラル・ウォーター等々を含めた「水」にまつわるものと、 ![]() そこに関わる人間たち(―刑事たる主人公と同僚の宮地、作業船の船員=加瀬亮、水溜りや海水に恋人や実子の頭を押し付けて殺害する男女、また、“溺死”させられた被害者たち)と主人公を取り巻く二つの幽霊、さらには、主人公ら警察関係者にカウンセリングを施す精神科医の高木=オダギリジョーらによって、ほんの少し前のことでさえも記憶が不確かになり得る人間というもの、また、忘却された過去や記憶、闇に葬られたもの葬られつつあるものについて、映画は不穏に思いを及ぼさせて行く…。 ただ、『叫』という映画は二つの異なるタイプの幽霊を擁していながらも、然程、恐怖演出に重きは置かれてはいないように感じる。(―例えば、黒沢清監督の前作『LOFT ロフト』の方が映像面でも音響面でも『叫』よりずっと露骨に怖がらせる演出の反映を随所に感じ取れた。)また、画面が醸し出す温度感というものが最初から最後まで然程変わらぬ、云わば、零度に終始するようなものに感じたし、映画に見て取れるあれこれがこれまでの黒沢清映画にあるもの以上に儚(はかな)げなものに感じ取れもした。そう、その儚げな世界観にあってこそ、現実に於いては実在すら定かではない幽霊というものが本作にあってはリアリティを持ち得て行くものだったようにも思い起こす。 さて、映画は冒頭の殺人事件に引き続き、第二の云わば“溺死殺人”を示す。主人公は最初の殺人事件現場でも続く二度目の殺人現場でもそこに残されたもの(指紋、コートのボタン、黄色い配線コード)に自分自身の影を否応無く見て取ることとなる。そして、二つ目の殺人事件が起こった後に突如自分の部屋に現れた赤い服を着た幽霊の姿を見てからは、愈々、赤い服の幽霊の姿とその叫び声に怯え精神的に追い詰められ憔悴して行き、ついには、同僚の宮地に勧められた際には「俺にはそんなものは必要ない」と突っぱねていたカウンセリング治療を自ら受けに行くまでになる…。 ![]() そして、三度目の“溺死殺人”が起こり、更には最初の(※映画冒頭の)殺人事件の赤い服の女の身元が柴田礼子という女性だったことが判明する。追って、市川という嘗ての婚約者だった男が犯人であったことも判明するや、程無く、市川は主人公らによって逮捕される。すると、再び赤い服の幽霊が主人公の自宅に現れる。主人公は「君はもうここに来る理由が無いだろ。市川のところへ行ってくれよ」などと吐き捨てた後に不意に真相を悟り「お前は柴田礼子じゃないんだな…」と口にする。 赤い服の幽霊は「ずっと前、私はあなたを見つけて、あなたも私を見つけた。見ていたくせに知っていたくせに皆私を見捨てた…」などと主人公に話し始める。 主人公の脳裏に、女性が精神病患者療養所の窓縁に立ち、水路を航行する船に乗った自分を眺めている映像が甦る。 赤い服の幽霊は叫び声を挙げ始める。主人公は堪らずに玄関の外へ飛び出す。幽霊も玄関のドアを手で開けて外に出、そして、その体は玄関と踊り場の間にある短い階段を降りたあたりにうずくまる主人公の頭上をひらりと舞うように飛び超えたまま公営アパート上階から中空へと飛び去って行く…。 憔悴し切った主人公は橋の上で春江に携帯電話を掛け「ここを出よう。理由は聞かないでくれ」と話す。 主人公は高木の診療所を訪れる。主人公から赤い服の幽霊の話を聞いた高木は怖れおののき「君はもう来なくていい。後は自分で解決してくれ」と主人公を追い返す。 駅に向かう主人公と春江。主人公は駅の改札で「先に行ってくれ、必ず追いつく」と言って春江を見送った後、嘗て、船上から「乗ってみるかい、ここからは裏側がよく見えるぞ」などと陸にいる自分に声を掛けてきた船員の作業船に乗せてもらい、今や廃屋と化している嘗ての精神病患者療養所に向かう。赤い服の幽霊は、廃屋となった療養所にやって来た(自らのもとを訪れた)主人公に「やっと来てくれたのね、あなただけ許します」と伝える。同時に、主人公は自分が春江を殺害した過去を、云わば、突きつけられることとなる…。主人公は幽霊であることが分かった春江に許しを請うと、春江は「もういいよ。恨んだって仕方が無い。だからもう忘れて」と主人公に告げて去って行く。 僕に取って本作を鑑賞中にあっての求心力となったのは、先述したような、ものを造るでもなく壊すでもなく在り、埋め立ててきた海からじわじわと侵蝕されているようにも見て取れる東京湾岸地域という不安定な場であり、互いに性格を異にする二つの幽霊であり、そして、二つの幽霊に罪を許されてしまう主人公の存在そのものだ。 ![]() ![]() 赤い服の幽霊(葉月里緒菜)は、かつて、精神病患者療養所で陰湿な体罰を受けた患者だったと解釈出来よう。体罰を受け/受け続けながらも療養所から逃れられない彼女は、療養所の窓から外を眺めながら、時おり、水路を航行する船に乗った人間が自分を見つけてくれたように思えたのかもしれない。しかし、いつまで経っても主人公も誰も助けに来てくれはしない…。つまりは、「見て見ぬ振りをされた」「見捨てられた」ことと「体罰」(―それで命を落としたのだろう)への恨みゆえに死後云わば“悪霊”となり、主人公に取り憑き主人公の恋人である春江を殺害させ、また、ある種の絶望を抱えた人間たちにも取り憑いたのだろう。 さて、赤い服の幽霊は主人公を許す一方で、主人公と共に殺人事件を捜査していた宮地の命を自ら奪いもする。 吉岡への(一連の殺人事件においての)疑念が払拭できずにいたのであろう宮地は主人公の自宅を訪れる。留守宅のあちこちを見て回ったあと、バス・ルームで水が張った盥(たらい)を見て取ると、細かい波紋が生じ始めた水面に近づいて指先をつける。すると、さながら高飛び込みの選手が一直線に水面に突き刺さって行くように、宮地目がけて赤い服の幽霊が叫び声を挙げてまっさかさまに落下突入して来る。宮地の姿は赤い服の幽霊と共に盥(=水/海水)の中へと瞬時に消えてしまう。そう、言うまでも無く、嘗て、彼女自身が盥に張られた海水に頭を押し付けられ溺死させられたことへの復讐だろう。 そう…、宮地は事件を追う過程で主人公の吉岡に「お前、何か勘付いているんだろ、言えよ」などと口にしてはいたものの、幽霊に命を奪われるには余りに理不尽と言える訳で、この部分だけをもってしてもこの赤い服の幽霊は“悪霊”と言い得るかと思える。そして同時に、規律を守らぬ患者に加えられたという体罰の陰湿さに不穏、憂鬱に思いが及んでも行く…。 僕に取っては、この映画が醸し出して行くしんみりとした寂寥感や鈍く疼くような痛みの感覚が鑑賞後にも俄(にわ)かには払拭しがたいところとなっている。 エンディング。「アタシは死んだ。だからみんなも死んでください」と繰り返す赤い服の幽霊の声が響く中、人気の無い、強風に新聞や紙屑が舞う街中を主人公が足早に歩いて行く。 街を去って行こうとする主人公を見据えて立ち尽くす春江が悲痛な表情で声無き叫びを挙げる。 P.S) ・・・そう、この『叫』には「時効を迎えた事件を趣味で捜査する男、霧山修一朗」、こと^^、オダギリ君が精神科医役で出演しているのですが、今回のエントリー中ではオダギリセンセについては殆ど何も触れられませんでした。ただ、いずれ、オダジョー^^については『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン(2007/松岡錠司)』〔◆allcinema ONLINE〕での演技に対する所感を含めて何かエントリーをしてみたいとは思っていますので、まぁ、何卒ヨロシクお願いします~^^ ![]() 〔当ブログ内の関連記事〕 ■〔映画鑑賞メモVol.13〕『LOFT ロフト』(2005/黒沢清) 〔※本エントリーは、以下のサイトともリンク中〕 ** 叫@映画生活 補足) ◆黒沢清監督、役所広司、小西真奈美、伊原剛志インタヴュー~シネマトゥデイ http://cinematoday.jp/page/A0001319 ◆幽霊は信じる?『叫(さけび)』役所広司、小西真奈美、伊原剛志、黒沢清監督インタビュー~Cinema Cafe.net http://www.cinemacafe.net/news/cgi/interview/2007/02/1408/ |
| ■〔映画鑑賞メモVol.16〕『ディパーテッド』(2006/マーティン・スコセッシ) |
**『ディパーテッド』の鑑賞メモに直接飛ぶ≪→こちら!≫ ―& 第79回アカデミー賞(2月25日)を楽しむ! ◆その2・「映画鑑賞券争奪((^^)・4者によるアカデミー賞6部門受賞予想結果、および、雑感」~監督賞、作品賞篇 ◆その1・「4者によるアカデミー賞6部門受賞予想」篇はこちら! こんにちは、ダーリン/Oh-Wellです。 さて、14日のホワイト・デー、皆さん、如何お過ごしでしたでしょうか。 女性の方々は、あれこれ贈り物を渡した数だけお返しを受けましたか?^^ おそらくは、男性よりも女性の方が楽しい一日だったことでしょう!^^ ![]() ―さて...、私め、 この3月は中々エントリーを出来ず仕舞い、また、ウェブ上に遊びに出ることすら中々出来ず仕舞いの少々多忙な日々が続いて居たのですが、昨日中、仕事等々が一山越えたので久々(14日ぶり!)のエントリーをしてみます。 今回は、「第79回アカデミー賞授賞式」でスコセッシに待望のアカデミー監督賞をもたらしたばかりではなく、監督賞、作品賞を含む4部門を制した『ディパーテッド』(2006)の鑑賞メモ≪→直接飛ぶ≫、さらに、当方の予想の的中具合((^^)、セレモニーの録画ヴィデオを鑑賞しての雑感等々を書き残しておきます。 ―尚、「演技賞篇」(※下Phは演技部門受賞者4人。左から、フォレスト・ウィッテカー:主演男優賞受賞、ジェニファー・ハドソン:助演女優賞受賞、ヘレン・ミレン:主演女優賞受賞、アラン・アーキン:助演男優賞受賞)は、或る作品の鑑賞メモと共に後日追ってエントリー致します。 ![]() ●●「第79回アカデミー賞受賞予想結果、および、授賞式雑感」~監督賞、作品賞篇 さてさて、「第79回アカデミー賞」、すでに、受賞結果〔◆allcinema ONLINE〕は皆さん御周知のことでしょう。 そう、前回の授賞式を僕なりに一言で言い表わせば「ポール・ハギスという映画人を世に知らしめた授賞式」とでも為るとすれば、今回は、スコセッシに改めて大きな脚光が当たった授賞式とでも言えるものかと素朴に感じました。 ![]() 今回の各作品のオスカー獲得数を見ると、4部門の『ディパーテッド』が最高、これに次ぐのが3部門の『パンズ・ラビリンス』、さらに、2部門の『リトル・ミス・サンシャイン』、『ドリームガールズ』、『不都合な真実』といった按配で、前回同様に5部門、6部門以上を制するような大勝作品が無かった訳ですが、前回のオスカーのエントリー記事中などでも書いたように、授賞式を眺めている分には一作品が独占して行くよりは余程面白いかと僕は思う次第です。 ともかく、『ディパーテッド』は5部門にノミネートされ「助演男優賞」以外の4部門を制した訳で大健闘かと思いますし、「外国語映画賞」部門を始め「脚本賞」をも含む6部門にノミネートされ3部門(撮影賞、美術賞、メイクアップ賞)を制した『パンズ・ラビリンス』(2006/ギレルモ・デル・トロ)なども大健闘ですよね。今秋の公開が待ち遠しい限りです! ![]() ![]() また、「作品賞」を含む3部門にノミネートされ2部門(脚本賞、助演男優賞)を制した『リトル・ミス・サンシャイン』(2006/ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス)、ノミネートされた「長編ドキュメンタリー賞」、「歌曲賞」両方を制した『不都合な真実』(2006/デイヴィス・グッゲンハイム)なども僕に取ってそれぞれに印象に残る受賞結果となりました。 そう、『ドリームガールズ』(2006/ビル・コンドン)は6部門8ノミネートで「助演女優賞」「録音賞」の2部門を制した訳ですが、作品関係者にとってはミュージカルで「歌曲賞」を逃した痛恨さは勿論想像に難くないのですが、この部門に自分たちの映画から3曲もがノミネートされてしまったこと自体が既に痛恨であり“ありがた迷惑”であったかもしれませんよね。^^ もう、端的に言えば、3曲に票が割れてしまい、一つの突出は難しくなる訳ですから…。 ![]() ビヨンセ〔左〕、ジェニファー・ハドソン ![]() ともかく、今回もまた一言では言いくるめられぬ楽しさのあるショー・セレモニー、エンタテイメント・ショーであったと思います! そう、初めてオスカーの司会を担当したエレン・デジェネレス〔◆IMDb◆公式サイト〕も十分にオスカー司会者(ホスト)の責務をまっとうしていたかと僕は思います。 ![]() この一大セレモニーにあっては、司会者と言えども、授賞式中の登場回数も、それぞれに費やせる時間も限られている訳ですが、エレンは、各部門の授賞セレモニーの間合いというものにあって、候補者たちに対しては如何にリラックスさせるかという点に於いて、また、参席者一般、視聴者に対しては如何に楽しくショーを先に繋いで行くかということに於いて、繰り返しに為りますが十分に責務を果たしていたと言えるかと思う次第。 ―さて、ここいら辺りで、当方での4人の受賞予想の的中具合を纏(まと)めておきます。 -------------------------------------------------------------------------------------- *6部門の「本命予想」に於いて、 全部門制覇→0人 5部門制覇→0人 4部門制覇→0人 3部門制覇→1人(ダーリン/多摩代表^^) 2部門制覇→1人( juneさん/東京代表) 1部門制覇→1人(Kazさん/石川代表) ★スカ((^^;→(ホームズさん/多摩代表) ―尚、私め、「対抗予想」を含めれば、6部門中5部門で的中を果たしました~! ・・・と、まぁ、一応、言い添えておきます^^ そして、何よりも、御三方の御健闘に感謝! ホームズさんのスカ(=的中ゼロ)は果敢な本命予想の果てのもの。 もう^^、作品賞に『クィーン』、主演男優賞にピーター・オトゥール、助演男優賞にジャイモン・フンスー、さらには、助演女優賞に菊地凛子・・・^^と云った果敢な賭けに等しい((^^;スリリングな予想の数々は目の覚めるような忘れがたいものでした。もう、これ以上と無い面白い本命予想を頂き(笑)、友人として心より感謝しています。そう、次回はスカッと((^^)4部門、5部門くらいはお当てくださることでしょう!!^^ juneさん、Kazさん、ホームズさん、授賞式前に、各部門に候補を出した諸作品を殆ど観れない中での「本命予想」を頂き誠にありがとうございました!! -------------------------------------------------------------------------------------- さて、引き続きましては、監督賞、作品賞の予想結果、受賞結果の雑感、そして、『ディパーテッド』の鑑賞メモを。 >> 「監督賞」の本命予想結果 ◆◆受賞予想、および、結果 ★マーティン・スコセッシ~『ディパーテッド』⇒ダーリン ![]() ●この部門は、僕だけが的中。しかし、ホームズさん、Kazさんがイーストウッドを本命に挙げたことには、僕などは密かに心打たれておりました。そう、僕が「対抗」に置いたイーストウッドは、『硫黄島からの手紙』に於ける4部門のノミネート中、自身がオスカー対象となっていた監督賞、作品賞(※スピルバーグ、ロバート・ロレンツと並び、製作者の一人として授賞対象者と為っていた)のいずれも逃した訳ですが、まぁ、今回は分が悪かったということでしょう。 そう、クリント御大ってオスカー受賞に自信がある時はお母様を連れて来ますよね?^^ 今回は、齢95には為るであろう彼女の姿が見当たらなかった時点で、僕などは「今回はスコセッシのオスカー・イヤーと為るのでは...」との予感が走りもしたものです―って、録画で見た時には勿論既に結果を知っていた訳です、はい。^^ しかし、イーストウッドは今回も栄誉有る重責を果たしています。そう、エンニオ・モリコーネ(1928年生)に授与された「アカデミー栄誉賞」に於いて、他に取替えの利かぬプレゼンテーター役を見事に果たしてくれていましたよね!! ![]() ★ともかく、この監督賞にあっては、コッポラ、ルーカス、スピルバーグと云ったアメリカ映画界の重鎮たちが登場するやこのセレモニーの興奮は否が応にも高まりましたね。 そう、三人が一頻(ひとしき)り漫才のような遣り取り(―詳細は措きますが、三人の中でもって唯一監督賞の受賞が無いルーカスが自虐的に振舞うさまが秀逸でした^^)を見せてくれた後、候補者の名がイリャニトゥ、スコセッシ、イーストウッド、フリアーズ、グリーングラスの順に告げられて行った訳ですが、自分の名が告げられるまでのスコセッシの目は少々虚ろだったようにも^^見えました。尤も、名が告げられた後にはすぐに壇上の友人たちに向けて人懐っこい笑顔を見せていましたけれども…。 さて、最後の候補者名の発表が終わると、スピルバーグが封筒を開けながら他の二人に「離れて」と言いつつステージ中央のマイクに寄る。そして、スコセッシの名が読み上げられるやルーカスなどひとしきり歓声を挙げ身をそらして拍手。舞台袖に控えるニコルソンも、最前席のディカプリオも満面の笑顔で祝福、ウォールバーグは指笛を吹きながら祝福、イーストウッドも笑顔で祝福の拍手を続ける…、当然、会場全体がこの日一番の拍手と大喝采に包まれる! 壇上に挙がったスコセッシは三人それぞれとひしと抱き合う。「サンキュー、サンキュー、サンキュー、サンキュー、サンキューリック(←リックって誰?^^)」、その後もスタンディング・オベーションを続ける会場の映画人たちにしばらく「サンキュー」を繰り返す。 ![]() ![]() ―以下、この日のスコセッシのスピーチを(番組中の字幕を頼りに自分なりに解釈できた範囲で)書き残しておきます。 「(※壇上中央に立ったスコセッシがスピルバーグの方を振り返り)もう一度チェックしてくれないか。^^ この栄誉をアカデミーからもらえて、そして、古い親友たちから賞を授与されて本当に光栄です。とてもとても感動している。 (※ワーナー・ブラザーズ映画、グレアム・キング等何人かの製作者、20年来の仕事仲間というジョー・リーディー等々の名を早口で並べた後、)ウィリアム・モナハンのクレイジーな脚本^^が問題作の第一歩でした。そして、アンドリュー・ラウが撮った素晴らしい香港オリジナル版映画、撮影のマイケル・ボールハウス(※日本では、ミヒャエル・バルハウスと表記されることが多い)、ハワード・ショアの素晴らしいスコア、古い親友で編集のセルマ・スクーンメイカー、キャスティングのエレン・ルイス、 ![]() 亙る親友セルマの受賞スピーチに涙ぐんでいたスコセッシも殊のほか印象的でした。 そして、キャストの皆のお陰だ。ジャック・ニコルソンの閃きにも助けられた(―※ここいら辺、特に良く聞き取れず。スコセッシは非常に早口なのです)。ディカプリオとは6年半一緒にやって来た。今後も12年、15年一緒にやろうな(―レオ、笑顔で頷く)。そして、マーク・ウォールバーグ、マット・デイモン、アレック・ボールドウィン、レイ・ウィンストン、ヴェラ・ファミーガ、マーティン・シーンにも感謝します。 長年に亙って私の受賞を願ってくれた人たちがいます。街中でも病院でもエレベーターでも見知らぬ人が声を掛けて来てくれた。「いつか獲れるよ」と言ってくれた人たち、ありがとう。長年の友人たちと今夜会場に居る友人たち家族にもこの賞を捧げたい。(―そして、妻子の名を挙げて行き、)TVで観ている7歳のフランチェスカ、あと10分我慢したら騒いでいいよ。明朝会おう。サンキュー!」 今回のこの授賞セレモニー、スコセッシと云う映画監督の人徳というか、如何にアメリカ本国では一般の映画ファンからのみならず、多くの俳優、映画人たちに敬愛されて来たかと云ったところが良く見て取れるかと思います。これまで過去5回受賞出来なかったのは、この才能ある監督にこの映画でオスカーをあげて良いのかなという深謀遠慮のよう意識がアカデミー会員たちの多くに常に働いていた結果なのかも知れないと僕は思う次第です。まぁ、人それぞれ解釈はさまざまでしょう。^^ >> そして、「作品賞」の本命予想の当落^^です! ◆◆受賞予想、および、結果 ★『ディパーテッド』(マーティン・スコセッシ)⇒Kazさん ![]() ジャック・ニコルソンとダイアン・キートン ●この作品賞部門の4人の本命予想は見事に^^4通りに分かれた訳ですが、ただ一人、Kazさんだけが見事に的中!! 僕は、勿論^^「対抗」で推していました。 そう、僕が「本命」に挙げた『硫黄島からの手紙』はノミネートされた4部門中「音響効果賞」のみの受賞ではあったものの、まずもって、現在最高のアメリカ人映画監督の一人と言えようイーストウッドによって、ほぼ全てのキャストが日本人、ほぼ全篇日本語、ほぼ日本側の視点に寄って描かれた映画が作品賞候補5つに残ったことだけでも大きな意義があると思います。 そう、僕はアカデミー賞作品賞を獲得した作品がその年のアメリカ映画の最上の一本となることはまず有り得ないと思います。それでも、アメリカのその年一年間の賞セレモニーの最後である「アカデミー賞」作品賞にノミネートされる5本の映画、そして、作品賞の栄誉に輝く映画は、決して侮れない大きな力、魅惑を持つものと僕は思っています。 今回作品賞の栄誉に輝いた『ディパーテッド』ですが、日本などでは賛否見事に別れるものの、アメリカ本国では観客にも批評家にも至って好意的、熱狂的に受け入れられているかと思えますし、それこそ『硫黄島からの手紙』のように日本の映画界では今後も中々作れそうも無い作品、また、小品ながら新味有る家族ドラマ、ロード・ムーヴィーとも言えよう『リトル・ミス・サンシャイン』と云った、二つのオリジナルな輝きを誇るアメリカ映画もある中で『ディパーテッド』にアカデミー会員たちの票が最も多く投じられたことは、少なくともスコセッシへの功労賞的意味合いであるなどと云ったこととは別の意味合いを僕なりには見い出せる次第。 つまりは、香港映画『インファナル・アフェア』(2002/アンドリュー・ラウ、アラン・マック)のリメイクではあっても、おそらくは、スコセッシのパワフルな演出力を見て取れる上に新味有るスコセッシ映画として、パワフルかつ面白いエンタテイメント・ムーヴィーとして、『ディパーテッド』という映画が多くのアカデミー会員の心を捉えたのだろうと僕なりには受け止めています。 ★うん、兎も角、ここは是非ともニコルソンが作品賞受賞作に『ディパーテッド』の名を発した瞬間の驚きを生中継で味わいたかったですねぇ…。もう、録画で観ていてすら、ニコルソンとダイアン・キートンがプレゼンターとして登場してから発表されるまでの時間は目を瞠りどきどきしてしまいますから、尚更、生中継で観れていたらと後悔してしまいますねぇ...^^ ![]() そう、発表直後のダイアン・キートンの大きな歓声がとても印象的でしたね、そして、舞台袖に居るスコセッシは驚いて少し固まっているように見えましたが^^、スピルバーグと抱き合ってからようやく受賞の実感を持てていたように見て取れました。ステージ上のニコルソンの御満悦の笑顔、候補者席のウォールバーグ、ディカプリオ等々作品関係者の喜びの爆発も、会場の大歓声も、授賞式を締め括るのに相応しい光景だったと思います! 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| ■〔映画鑑賞メモVol.15〕『イカとクジラ』(2005/ノア・バームバック) |
―& デヴィッド・リンチ監督最新作“Inland Empire”(2006)の予告編登場≪→直接飛ぶ≫ ◆◆エントリー内参照(Rock関連)・・・ピンク・フロイド「ヘイ・ユー」、ルー・リード「ストリート・ハッスル」≪→こちら≫、ピンク・フロイド≪→こちら≫ こんばんは、ダーリン/Oh-Wellです。 ![]() さて、12月17日・日曜日、ここ東京は朝から晴天で、家の中でも外出中にあっても過ごし易い一日でした。 忙しないばかりの師走真っ只中ですが、昨日、今日で片付いたことが有ります。 まぁ、一つはXマス・ディナーの予約なのですが、今年のイヴは日曜という事もあって予約の埋まり具合が例年よりも早いようですね。わが家も良いタイミングで予約を取れ、まずは、ほっと安堵している次第です。 ![]() そして、今日の日中は、そのXマスのプレゼントを含めた幾つかの、やや^^大きな買い物を済ませました。まぁ、ほぼ予算内で買い物が納まり、これまた、ほっと安堵できている次第です。^^ ![]() ―さて、それはそれとして(笑)、 今回は、12月2日の公開初日に新宿で鑑賞した『イカとクジラ(2005/ノア・バームバック)』〔◆IMDb◆Movie Walker〕の鑑賞メモを残しておきます。 続きを読む>>> |
| ◆『ブラック・ダリア』(2006/ブライアン・デ・パルマ)鑑賞雑感 |
こんばんは、ダーリン/Oh-Wellです。 さてさて、11月も残すところ1日と数分^^ほど……。 今月の目標だった10エントリーは厳しくなって来たかなぁ~(笑) ―さて、 前回のエントリーでは、この9月以降に鑑賞した新作公開映画10本ほどを4つの区分の中に当てはめてみた訳なのですが、そこでもって「僕なりに多少の不満はあるものの最初から最後まで面白くは観れた作品」として置いたのが、我らが^^デ・パルマの『ファム・ファタール(2002)』〔◆当ブログ内鑑賞メモ◆IMDb〕以来4年ぶりの新作となった『ブラック・ダリア』〔◆当ブログ内鑑賞直前メモ◆IMDb〕。 ※ネタバレ注意 本作は、僕に取っては、先述したように、「僕なりに多少の不満はあるものの最初から最後まで面白くは観れた作品」ではあり、しかし、「その醍醐味なり、美点なりをひと括りには言い表しにくい」映画とも為っています。 ![]() また、僕に於いては、例えば、一週間と空けずに二度目を観に映画館に足を運びたくなるようなデ・パルマ映画ではなかったものの(―まぁ、私め、『殺しのドレス』(1980)以降の大概のデ・パルマの新作はロードショー期間中に二度は観に行っている訳です)、勿論、劇場公開が終了してしばらくして名画座にでも掛かれば再鑑賞しに行きたいですし、DVDヴィデオなりでも時おり再鑑賞して行くことにはなるでしょう。 つまり、鑑賞を二度、三度と重ねて、徐々に、この映画の濃密さ(※原作者のジェイムズ・エルロイ曰く、「この映画は私の本を見事に圧縮している」「ほとんどドイツ表現主義版の『ブラック・ダリア』という印象さえある」~本作の劇場パンフレットから引用)を妙味として受け止めて行ける映画だと僕は思っている次第です。 ![]() もう、素直に感心する部分も多く、一方で、デ・パルマ・ファンとして物足りなく思えてしまう部分も少なからずあります。そう…、体を真っ二つに切断されてL.A市内の空き地に打ち捨てられた≪“ブラック・ダリア”=エリザベス・ショート≫の死体ではありませんが、一度観た限りでは、僕の中で一つの穏やかなと言うか、そう、明瞭な印象に収まって行かなかった訳です。この、不穏なものが残って行く映画ぶりは、勿論、この未解決猟奇殺人事件を題材に扱ったものゆえの必然でもあるのでしょう。 ![]() ともかく、長年に亙ってデ・パルマ映画というものを享受して来た者の一人としては、素朴にわくわくと目を瞠り素直に感心できたところすら書き残して置かぬこともまた健全なことには思えませんので^^、今回のエントリーでは、『ブラック・ダリア』を観て、今、思うところを大まかに書きとめておきます。 まず、本作には、大概のデ・パルマ映画に巧まずして備わって来るような、如何わしいながらもファンとしては心地よく耽溺してしまえるような、デ・パルマが自らの腕(技巧)を存分に嬉々と^^ふるっての、云わば、映像ギミック的なもの目映さなり、品位などと云ったものとは少々無縁ながらもデ・パルマ独自の艶っぽい映像イメージというものを然程享受出来ぬところが在って、主としては、こんな部分ゆえに僕は初鑑賞の際には存分に本作を堪能出来なかったのでしょう。 まして、この事件を扱ったジェイムズ・エルロイ渾身の長編小説(―私め、今週始めより本書を読み始めていて、まだ、端的にその内容なりを言い表すことは出来かねるのですが、幾つかの書評や解説にあるような「…10歳の時に母親が何者かに殺された上、その事件が迷宮入りとなったことで深いトラウマを負った著者は11歳の時に彼自身が生まれる前年に起こった“ブラック・ダリア殺人事件”に取り憑かれる。そして、母親の死から7年後に父親も他界。孤児となったエルロイの人生は堕落の一途を辿る。……中略……そして、デヴュー作から7作目にして遂に母親への屈折した思いを重ね合わせる中にブラック・ダリア事件を扱った重厚な犯罪小説を完成させる」とでも云ったところは本書を一つには言い表しているかと思います)を原作に持つ映画製作の中では、好き勝手、やりたい放題が出来る訳も無かったということに尽きると捉えても良いのでしょう。 この部分に於いてのデ・パルマなりの慎み(―端的にひとつを言えば、“ブラック・ダリア”に何らかの兇器がふるわれての流血場面というものが無いことにもそれを感じました)や悲劇のヒロイン“ブラック・ダリア”に向ける哀れみと云うものには、僕なども、一方為らぬ感慨を抱くところであります。 また、デ・パルマ贔屓の僕には珍しいことなのですが、本作に於いては、キャスティングの一部に然程説得力を感じ取れぬところと相成りました。そんな中で、最も目を瞠らされたのは、“ブラック・ダリア”ことエリザベス・ショートのキャラクター造形。デ・パルマは、この悲劇のヒロインにミア・カーシュナーを得ることで、このヒロインに愈々意欲を持って迫ることと相成ったのではないかと僕なりに感じ取れました。 ![]() 殊に、映画中映画としてある内の一つ、エリザベス・ショートのオーディション・フィルムの中でもっての、スターを夢見るヒロインに迫って行く姿無き監督の視点の元に映し出されるヒロインの健気、哀感が相伴って見て取れる姿、ヒロインに問いかけ演技指示を出す監督の声(※その、低めの存在感ある声はデ・パルマ自身によるもの)共々によるどこか微笑ましくもあり如何わしくもあるこのオーディション・フィルムの映像は、 ハリウッド・スターを夢見てL.Aにやって来たものの身を持ち崩し、果ては何者かに惨殺された、この悲劇のヒロインの生前の姿に観客個々が思いを及ぼしてゆく拠り所として大いに機能しているかと思え、その後に示されるポルノ・フィルム中の遣る瀬無くキャメラに納まっているヒロインの姿と表情には哀れみを寄せずには居られなくなりましたし、そして、納屋の中で愈々殺人鬼の手に掛かってしまう姿には、過去のデ・パルマ映画にあるような流血場面を含めたデ・パルマ独擅場のショッカー演出などはされていないにも拘らず、愈々目を背けたくも為ってしまいました。 ともかく、登場シーンからして既に死体であるこのヒロインは、主人公たる“バッキー”(ジョシュ・ハートネット)が捜査過程で見ることと為る二つのフィルム(オーディション・フィルム、ポルノ・フィルム)の中、そして、回想映像として示される中にしか居ない。登場人物中、唯一、現在という時制の中には描かれない…。 ―ここの部分は、当時のロス市警が総力を挙げ捜査したにも拘らず加害者(犯人)逮捕、事件解決に到達できなかった本事件の持つ闇、もどかしさの反映としてあるとも言えそうです。 そして、件の二つのフィルム中のオーディション・フィルムに於いては、或いは、デ・パルマはミア・カーシュナーを持ってして、エリザベス・ショートの銀幕デヴューを密やかに叶えてあげたのではないかとも僕なりに受け止めてもいます。 ![]() さて、ミア・カーシュナー扮する“ブラック・ダリア”ことエリザベス・ショートに加えて、僕が本作で目を瞠ったところを挙げておきますと、 ひとつには、矢張り、映画の要所に見て取れるデ・パルマならではのキャメラ・ワークの妙。 殊に、あの、 “ブラック・ダリア”の惨殺死体が初めて映画中で示されるショットを含むシークェンス。おそらくは、朝方のまだ人気の無い通り沿いに建つ一つのビルを捉えたキャメラはゆっくりと高く舞い上がって行きビルの向うの空き地とそこに打ち捨てられた死体をロングで見せる、キャメラは、一旦、ビルを回り込んでビル手前の通りに舞い戻って来、別のエピソードを示した後に、ビルの中を移動しビル向うの死体を見遣る刑事たちへと寄って行く…。この、二つのエピソードに跨っての一連のクレーン撮影、長回し、移動撮影にあるスリリングかつダイナミックなキャメラ・ワークはデ・パルマと撮影監督ヴィルモス・ジグモンドが本作でものにした最大の見せ場ではないかと思います。 ![]() また、主人公の相棒刑事たる“リー”(アーロン・エッカート)が何者かにナイフで斬り付けられる場面を含む、階段とその吹き抜けを舞台装置にした如何にもデ・パルマ独擅場の演出が効を奏しての「墜落」に締め括られるシークェンス等に於けるキャメラ・ワーク、そして、忍び寄る魔手の影の強調などにも、デ・パルマならではの視覚的ケレン味が迸(ほとばし)っていたかと思い起こします。 さらには、主人公によって、『笑ふ男』(1928/パウル・レニ)という、かつて“リー”、ケイ・レイク(スカーレット・ヨハンソン)と一緒に映画館で観たサイレント映画の一場面中の背景セットと、先述したポルノ・フィルムのセットの一致が見つけられて行くあたり、そして、そのセットのある某所に足を踏み入れた主人公が、愈々、殺害の核心へと迫って行くあたりの濃密さも忘れがたい…。 ![]() これら以外にも、幾つか心惹かれた部分はあるのですが、再鑑賞して確認してから、いずれ書き加えてみることと致します。 斯様に、僕に取っては、必ずしもデ・パルマらしさが全開したとは感じ取れぬ本作では有った訳ですが、まぁ、これまで、然程には原作ものの映画化を手掛けることは無かった(―例えば、『キャリー』(1976)、また、『カリートの道』(1993)などは、原作ものでのデ・パルマ演出による映画化での成功例かと思います)デ・パルマに取っての意欲的なチャレンジとも言えるかと思いますし、デ・パルマたるタフな映画監督が、これを持って精根尽き果てた訳でも無いでしょうし^^、今後も『殺しのドレス』(1980)、『アンタッチャブル』(1987)、『ミッション:インポッシブル』(1996)等々のようにデ・パルマ・ファンを満足させつつ更に多くの映画ファンを引き込んで驚喜させ大ヒットを勝ち取る^^ような映画をものにしてくれるものと、まぁ、僕などは素朴に思え期待している次第です。 |
| ■〔映画鑑賞メモVol.14〕『父親たちの星条旗』(2006/イーストウッド)& more... |
1.『サラバンド』(2003/ベルイマン)鑑賞プチ・メモ≪→こちら≫ 2.『父親たちの星条旗』(2006/イーストウッド)鑑賞メモ≪→こちら≫ 3.『百年恋歌』(2005/ホウ・シャオシェン)鑑賞前メモ≪→こちら≫ おはようございます、ダーリン/Oh-Wellです。 11月4日の朝を迎えました。^^ 11月3日の「文化の日」を含むこの3連休、皆さん、いかがお過ごしでしょうか。 さて、この3連休を使って、紅葉見物〔◆全国紅葉名所カタログ2006~Walkerplus〕に出かけられている方、今日、明日にお出かけ予定の方も多いことかと思います。 僕の住む東京や東京近郊の紅葉の見頃はこの11月の中頃以降のようですから、わが家では、その頃に適当なところへ紅葉見物にでも出かけて来ようかと思っています。出来れば、温泉なども兼ねて... さて、私め、一週間ぶりの更新をしようと思いながらも、いざ、連休に入ってしまえばのんびりとするばかり…^^ そう、先週の金、土、日には、それぞれ、『楽日』(2003/ツァイ・ミンリャン)、『父親たちの星条旗』(2006/イーストウッド)、『サラバンド』(2003/ベルイマン)の鑑賞と相成った訳ですが、それらの鑑賞の余韻でもって、この一週間ほどは良い意味合いで満腹状態になっているがゆえに、「鑑賞メモ」等を書けないでいる部分もありましたねぇ…。(⇒※3本の映画の鑑賞前メモは、こちら!) これら3本の映画は、僕に取って、実に、三者三様の映画ぶり、オリジナリティーを持った映画たちでした。それぞれがそれぞれに完結した魅惑的な映画時間を持っていて、個々に異なる余韻を残してくれました。そして、僕に取って、一度の鑑賞では勿体無い映画たちのようにも思えています。 ・・・そう、『サラバンド』、『父親たちの星条旗』の双方にあっては、作品中に於いて「写真」と云うものが大きな役割を担(にな)っていることなども(―たまたま、これらの映画の鑑賞の前に、当ブログの前々回で「映画中に於ける印象深い写真」と冠したエントリーをしていることとも相俟って…)僕に取って強く印象に残るところの一つと為っています。 ―という訳で、今回は、『サラバンド』、『父親たちの星条旗』についての鑑賞メモを残しておきます。 まず、『サラバンド』(2003/ベルイマン)は、映画の主人公、語り手であるマリアン(リヴ・ウルマン)が一枚の写真を観客たちに示す場面から始まる映画であり、 ![]() また、今、詳細に触れることは避けますが、劇中、アンナという女性がモノクロの写真のみで示されて行きます。この、アンナの穏やかで美しい面差し、また、その面差しが映画中に於いて想起させて行くキャラクター性は、マリアンを始めとする主だった登場人物4人と並んで、僕の中に忘れがたい余韻を残すところとなっています。 >>当ブログ内『サラバンド』関連記事 ◆◇「2006年度新作公開映画ベスト20~ダーリン/Oh-Well篇」 ●『サラバンド』のデジタル・ハイヴィジョン映像についてのメモ 映画冒頭、夜の戦場を走る一人の兵士の足元が捉えられる。あちこちから「衛生兵!」の声が聞こえてくる中その足は止まり、彼の目は周囲を見回すも、助けを求める兵士たちの姿を見つけられず為す術も無く立ち尽くす。… 『父親たちの星条旗』は、この冒頭に示された主人公ジョン・“ドク”・ブラッドリー(ライアン・フィリップ)の悪夢にある闇はもとより、硫黄島の黒い砂を想起させ、延いては、黒い砂の上に於ける兵士たちの死の集積としての闇を象徴するような、文字通り「戦場の闇」に繋がる黒味、くすんだ色調を観る者に印象付けて行く独自のフィルム・トーンの中に、主としては、衛生兵として硫黄島の戦いに従軍、参戦した主人公“ドク”を演じたライアン・フィリップによる印象深い眼差しを通してイーストウッドが見据えたもの、見据えようとしたものから為る画面に紡がれて行く…。 ![]() この映画は、一か月間以上に及ぶ日本軍との激戦、消耗戦の末にアメリカ軍が硫黄島を占領するまでの過程をじっくりと再現描写することなどによって観客を引っ張って行くものでは無く、増してや、その戦いの果てにアメリカが硫黄島を制圧、占領した際の勝利の情景などが置かれることも無い。そう云った、戦場に於けるアメリカという国の栄光を星条旗と共に謳い上げるような映画では無いでしょう。 『父親たちの星条旗』という映画は、今日まで、写真や彫像などによって広く知られる、あの、硫黄島の戦いの最中(―1945年2月23日、アメリカ軍の硫黄島上陸から4日目)に於ける、主人公を含む6人の若きアメリカ兵による摺鉢山(すりばちやま)山頂での「アメリカ合衆国国旗掲揚(けいよう)」のイメージ自体と、そこにまつわる裏事情とでも云ったものを一つの求心力にしながら、 この写真が新聞一面に掲載されるやアメリカ中に大反響を呼んだがゆえに、その星条旗を立てた生き残りの一人であるがゆえに、国家によって“戦場の英雄”の一人として祀り上げられ莫大な戦費を調達するための戦時国債キャンペーンのシンボルとして利用し尽くされ暫(しばら)く国民にもてはやされるものの、晩年まで、映画の語り手ともなる息子ジェイムズ(トム・マッカーシー)に対してさえも硫黄島での戦いを一切語ることが無かったとされる主人公の存在自体こそが映画の最たる求心力になっていることを僕は感じ取れました。 ![]() 主人公の息子ジェイムズは、父親が戦場に於いて、また、“英雄”として帰還した後のアメリカ戦時下に於いて為したもの、目の当たりにして来たものを当時を知る老人たちに取材しながら探し求めて行く。一方、主人公たる父親は、硫黄島から帰還後50年余りを経た最晩年まで硫黄島の戦場が悪夢として甦り、一番の戦友だった “イギー”(ジェイミー・ベル)を夜戦の最中に守り切れなかったことへの自責の念に苦しみながらも、周囲には一切を語らぬまま遂に病床に臥(ふ)してしまう。 この父子の姿からは、人間、親子に於いて限り有る時間というもの、兵士に取って掛け替えの無いもの、父親に取って掛け替えの無いもの、親子というものの絆の在り処、親から子へ受け継がれて行くものの示唆を僕は感じ取れ、それは、鑑賞後にいよいよ重みを以って気づきと為って行くもののように、今、思えています。 ![]() 映画には、件の星条旗掲揚の写真と並んで僕ら観客の目を奪う写真がエンディング・クレジットに於いて多数示されて行く。 それらの内の多数を占める硫黄島の戦いに於ける一枚一枚の写真は、主に、主人公の脳裏に硫黄島を去った直後から晩年までフラッシュ・バックして来るものから広がり出す戦場の動的なイメージを眼差して来た後だからこそ、最早、単に、戦場で撮られた一枚の写真という固定されたイメージに収まるばかりではなく、そこに生々しさを以って加わって来るものがあるがゆえに、僕の目を奪って行くものだったように思い起こします。 ![]() 僕にとって、この132分を体験することで思いが及ぶところは取り留めのつかないものでもあるのですが、このすべての映画時間に於いて鑑賞後に尚忘れがたいイメージは二つに絞られもします。 一つは、主人公が息を引き取る前に息子に唯一話した硫黄島の話となる、星条旗を掲揚した摺鉢山から降りた後に体験したという「海水浴」の光景を示したシークェンス。その、主人公がしばらく佇む波打ち際から捉えられた若い兵士たちが海にたわむれる光景は、或いは、父と息子が一瞬にせよ共有し得た硫黄島の戦いの最中に於けるイメージだったようにも僕は思えます。 そう、この映画に総じて一貫する、くすんだ色調を持つ独自のフィルム・トーンは、視覚的にも心理的にもさまざまな意味合いで戦争の闇に繋がって行く余韻を僕に残して行くものだったのですが、唯一、この浜辺と若い兵士たちがたわむれる海にあっては天の祝福のもとにあるかのような目映い光が溢れている…。 このまばゆい美しさを湛えた海辺のイメージは、主人公が浜辺から海へと走って行くと俯瞰の映像に転じ、更にキャメラは何回か引き沖合いへとパン。そこには、当然の如しに一群のアメリカ軍艦船が映し出され、先述したエンディング・クレジットに繋がって行く…。 そして二つ目は、エンディング・クレジットの最後に示される、現在のものと見て取れる、摺鉢山の頂から見下ろした硫黄島の海岸と海を擁した映像。 嘗(かつ)ての戦いから最早60年以上。ここには今だに戦争の遺構や激戦の爪痕が残っていると見聞きもします。しかし、一見、そこからは、嘗ての激戦から癒やされ切った硫黄島の光景が風に吹かれて広がっているばかりのように感じ取れもしました。 【註】映画の主人公ジョン・“ドク”・ブラッドリーは1994年に逝去。 〔当ブログ内の関連記事〕 ◆◇「2006年度新作公開映画ベスト20~ダーリン/Oh-Well篇」 >>ポール・ハギス脚本、イーストウッド監督作品 ■〔映画鑑賞メモVol.1〕『ミリオンダラー・ベイビー』(2004/クリント・イーストウッド) >>ポール・ハギス脚本、監督作品 ■〔映画雑談Vol.16〕第78回アカデミー賞(3月5日開催)を楽しむ! その2・「映画鑑賞券争奪((^^)・アカデミー賞6部門4者最終予想、および、結果」篇 ⇒◆含、『クラッシュ』(ポール・ハギス)鑑賞プチ・メモ >>スピルバーグ監督作品 ■〔映画鑑賞メモVol.9〕『ミュンヘン』(2005/スティーヴン・スピルバーグ) ■〔映画鑑賞メモVol.2〕『宇宙戦争』(2005/スティーヴン・スピルバーグ) 〔※本エントリーは、以下のサイトともリンク中〕 ** 父親たちの星条旗@映画生活 (※11月7日、11月11日、『父親たちの星条旗』に一部追記。) さてさて、私、本日は『百年恋歌(2005/ホウ・シャオシェン)』〔◆IMDb◆Movie Walker◆公式サイト〕を鑑賞予定です。 この映画は、僕に取っては、『珈琲時光』(2003)以来の映画館でのホウ・シャオシェン監督作品となる訳ですが、まずは何よりも、『ミレニアムマンボ』(2001)以来のスー・チーをヒロインに据えたホウ・シャオシェン映画として楽しみなところであります。 ![]() 映画は、辛亥革命前夜、1960年代、そして、現在を舞台に置く三つの恋愛ドラマを、いずれも、スー・チー、チャン・チェンの主役カップルでもって描くもののようですね。 僕は映画館で何回か本作の予告映像を観ているのですが、ヒロインのスー・チーがとてもしっとりと艶っぽくスクリーン映えしていたように思い起こします。ともかく、とても楽しみなホウ・シャオシェンの新作映画であります! ![]() -------------------------------------------------------------------------------------- >>銀座シネスイッチ(※10月21日より上映中) 10:40/13:30/16:20/19:10~21:40(終) ―尚、上映時間などは各自ご確認のほどを! -------------------------------------------------------------------------------------- それでは、今回はこの辺にて失礼を。 皆さんも、ご友人、恋人、ご家族と良き紅葉見物、映画見物^^等々を~! |
| ■〔映画鑑賞メモVol.13〕『LOFT ロフト』(2005/黒沢清) |
こんばんは、ダーリン/Oh-Wellです。 さて、この10月唯一の三連休の初日、皆さんいかがお過ごしでしょうか。 いやはや、今日の東京は台風一過というか、素晴らしい秋晴れだった訳ですが、 今週は週明けから雨が続きましたねぇ…。 特に、昨日(10/6)朝方からの、東京を含む関東地方あたりでの雨は、台風16号の直撃によるものでは無いものの(→◆岩谷忠幸の気象最前線)、久々の大降り、しかも、終日の大降りでしたよね。まぁ、会社、学校から真っ直ぐ帰ったにせよ、僕のように飲んでから帰路に就いたにせよ、可也、服やカバンなどを濡らして帰宅した人が多かったかと思います。 ![]() そう、「雨」と言えば、例えば、怪奇映画というものは、森の中に佇む洋館、古びた一軒家であったり、その地下室であったり、美男美女であったり、嵐の夜であったり、怪異な姿を持つ何者かであったりと、定番、かつ、重要な要素が幾つかあると思うのですが、「雨」というものそれ自体も劇中に陰鬱な気配を醸成し、また、例えば、ヒロインが追っ手や怪物から逃げ惑うシークェンスなどでのサスペンス効果を高めるなどの役割を果たしていますよね…。 僕が、ほぼ一か月前に鑑賞した『LOFT ロフト』なども、洋館が主舞台の一つですし、沼を擁した森も印象的ですし、主役カップルは美形ですし、幾つかの夜の気配も印象的ですし、突如嵐も起こったりするのですが、然程、「雨それ自体」の印象が残っていません。例えば、雨降りしきる夜、何者かに追われるヒロインがぬかるんだ道に足を取られることで観る者をハラハラさせるような演出というもは無かったように記憶しています。 ―さて、今回のエントリーは、黒沢清監督の最新劇場公開作となった『LOFT ロフト』〔◆Movie Walker〕についての最初の所感を書き残しておきます。 ***ネタバレ注意 僕に取って、黒沢清の新作映画『LOFT ロフト』は素朴に「じわり面白い」映画でした。じわりスリリングでじわり妙味、一つ大まかに言えば、そんな映画体験でした。 また、この、『LOFT ロフト』を初鑑賞し終えた際には、僕に取っては、『CURE キュア』(1997)、『回路』(2000)、『カリスマ』(1999)等々を初めて見終えた際の、いきなりのずっしり感や、『ドッペルゲンガー』(2002)を見終えた際の大きなカタルシスと言ったようなものを得られた訳では無かったものの、 黒沢監督が韓国のプロダクションの資金協力をも得て、自分のやってみたいものを気張った素振りなく、何と言うか…、余力でもって撮り上げてしまったようなスマートさがあるように思えましたし、実際に、そんな部分が反映されたかのような然りげない素振りが本作の美徳の一つにも僕は思えています。また、この映画時間に於いては、何かを読み解くようなストレスを感じることなく映画に浸っていられた心地好さに一貫する映画体験が叶ったように、今、改めて思えている次第です。 劇中のミイラの扱いに於ける呆気羅漢とした出鱈目臭さも、屋内外の空間描写のスマートさも、靄(もや)、霧が走っている沼の水面や森の美しさも、あの、木島(西島秀俊)によって死体が埋められたあたりの赤松の美しさも、女流作家・春名礼子(中谷美紀)が高円寺から移り住む東京郊外に建つ木造洋館と廃屋的な無表情のコンクリートの建物とが向き合う舞台装置としての妙も、幽霊の扱いに於ける黒沢清監督の相変わらずの冴えと新味(―端的にひとつを言えば、あの、安達祐実扮する幽霊が窓に残して行く手形)…等々をも含めて、映画を眼差す僕の意識は恐々(こわごわ)と覚醒し続け、 ![]() その、考古学者・吉岡(豊川悦司)とヒロインの会話中にあったものからすれば、あるいは、およそ千年前、末永い美貌、若さを得るために泥を大量に飲んで沼に沈みミイラになったらしい女性と突如黒い泥を吐き出すヒロインとの因果関係、 吉岡を中心とする考古学研究チームが沼の底から引き上げたものの、然るべき保存処置をせずに吉岡が身近に置くままと相成っているミイラ自体、そして、昭和初期のものとされる記録フィルムに映っている、シーツに包まれたミイラごときものとの関連、 吉岡の同僚・友人である日野(大杉蓮)が口にしていた、睡眠中に金縛りにあった時に日野の体にしばらく乗っていたと云うひんやりとしたゴムの塊のようなものの正体、 さらには、安達祐実扮する幽霊と吉岡が身近に置くミイラとの関連… ―等々と云った、劇中に映像や台詞で示された不可解なものが劇中具体的に解き明かされることも無く映画時間が紡がれて行く訳ですが、本作にあっては、そんな状態が僕の中におのずとサスペンス状態を持続させるものと相成り、劇中、何ら解き明かされないあれこれが、僕にストレスを感じさせることも殆どありませんでした。 ![]() そして、本作は、黒沢清の自家薬籠中のものたるホラーに、「メロドラマ」性、そして、往年のハリウッド怪奇映画の風景、趣と云ったもの取り込みようが、大げさなものではないながらも、これまでの黒沢映画に無い新鮮なトーン、肌理を加えていたように思えました。 ![]() ヒロインが最初に吉岡の影を目に止める木造洋館の2階の窓辺、廃屋の汚れた曇りガラス越しに掌を合わせる吉岡とヒロインの姿、距離感、また、吉岡が窓越しに目に止める、洋館の窓辺に佇むこの洋館の前の住人・亜矢(安達祐実)の物憂げな姿等々、二つの建物の窓が取り持つ男女のさまざまの距離感がロマンチックさも不穏さも相俟つ、他者に時めく感情を示し得ていたかと思いますし、 ![]() また、ヒロインは、スランプの末、亜矢の遺した原稿を書き写す訳ですが、それを担当編集者・木島に手渡した後にいよいよ接近して行くヒロインと吉岡や、嵐の中で交わされる、通俗的な恋愛小説の台詞にもありそうな、この男女の大仰な言葉のやりとり、そして、熱い抱擁など等は、これまでの黒沢作品には見られぬ生々しいウエット感をもたらしていたかとも思います。 ![]() 『CURE キュア』等を含めたこれまでの黒沢ホラーと同様、劇中に於ける現実音的なノイズとして施された部分をも含む「音」も、本作に有っても、また、映画中の不穏、緊迫を醸成する大きな役割を果たしていたかと思います。 今、一つ一つを事細かに書き示すことは一旦おかせて頂きますが、 洋館の外に唸る風音、 真夜中、停電したままの洋館にひとり居るヒロインを突如襲う天井からの物音、無人の階段が示される中での木造家屋のきしみ、 そして、洋館の敷地だかに設置された焼却炉が作動中に発する重々しく寒々しい金属音と投げ入れられたものが燃えて行く際の曰く言いがたい無情な引火音、 あの、沼の桟橋の先に備え付けられた巻き上げ機のハンドルを操作する際の重々しいきしみ音とカラカラした回転音(…あの、映写室で「ミドリ沼のミイラ」の上映が終わった後に、フィルムがリールに巻き取られ切ったあとのカラカラと云う乾いた音にも重なって聴こえていたかもしれない…)、 木島によって洋館に投げ入れられる石が窓を突き破る暴力的な乾いた音、 また、吉岡が突如ミイラにメスを突き刺した際の乾いた音… ―等々、印象深い「音」が幾多思い起こせます。 この映画には、人間とともに、幽霊、そして、ミイラが出てくる訳ですが、幽霊に於いては、僕はそれに姿形を与えた安達祐実のフォトジェニックさ、非凡な“可愛らし美しさ”とでも云ったものが引き出され活かされていたかと思い、僕は、安達祐実扮するそれ自体に、そして、黒沢清の安達祐実を得ての幽霊造形に素朴に目を瞠り、見惚れているばかりでした。 ![]() そして、一方のミイラに於いては、あの、立ち上がった際のミイラの姿、見せ方に於いて少々説得力に欠けていたように思えています。 例えば、『回路』に於ける、あの公営住宅の一室で一人の青年の前に姿を現しスローモーションのように向うから迫ってくる女の幽霊、そして、あの廃屋のような工場の一室で加藤晴彦扮する主人公の前に姿を現す男の幽霊に於ける見せ方の冴え、緻密さ、有無を言わせぬ映像そのものでの説得力が欠けていたように思えました。その、『回路』に登場する幽霊たちの姿は、何と言うか…、ホログラム映像のようにも、生身の肉体のごとしにも見えながら、不幸にも主人公たちに見えてしまった、まさに、「幽霊」としてフィルム上に存在してしまっている。「幽霊」たちは、途中、前のめりによろけたり、加藤晴彦によって体を掴まれてしまう意外さをも示しつつ、あの映画時間の中で凄まじい恐怖そのものとして僕に迫って来る…。 一方での、本作『LOFT ロフト』に於けるミイラの造形は、それを切り刻もうにも果たせずに頭を抱えて苦悩する吉岡の傍らでむっくりと起き上がった途端に、それまでにそのミイラが醸し出していた素晴らしき異形性を失ってしまったように思えました。 ただ、総じて言えば、十分、緊迫感を孕む115分だと思えました。一見、黒沢清の純粋な新味かと観客に見つめさせる、美形の主役男女の姿が在ることそれ自体の心地好さ、甘美、延いては、彼らの「恋」ですら、最終的には単なる恐怖以上のものを観客に味あわせるための要素だったと言えなくもなさそう…そんな風に、今、思いが及んでいます。 ![]() そう、他者の遺した小説原稿を盗用したものの、最終的には、そんな自分を否定するに至るヒロインに象徴されているのか否かは別として、僕に於いては、先述した、ヒロインが吐き出す泥の意味、そのヒロインとミイラとの因果関係等等を読み解くことを含めたストーリー性云々ではなく、また、映画の鑑賞中にあって画面に紡ぎ出されているものから自分の中でストーリーをでっち上げて行くことよりは、この、最初から不穏に謎めきながらも、何やら、仕舞いには、唐突に、この世に連綿とある真相の一端でも垣間見えて来そうな映画時間に(出来るだけ無心に)浸っている快楽の方が勝る、その部分をもっと説得力をもって言い表すことが叶えば、あの115分に浸っていることに辛うじて準じる喜びが得られるのかもしれません。 ―と云う訳で、再鑑賞して、また、細部を含めたところに考えが及んだ上で纏(まとま)るものが有れば追記してみたく思っています。 〔当ブログ内の関連エントリー〕 ■〔映画鑑賞メモVol.17〕『叫』(2006/黒沢清) ◆9月10日を振り返る/黒沢清に関するプチ・メモ…未満^^(※仮題) P.S) さて、今年もまた、古代エジプトのあれこれが日本にやってくるようですね…。 ![]() cf.昨秋開催された「古代エジプト展」のエントリーはこちら! ―それでは、皆さん、ご友人、恋人、ご家族と楽しい3連休を~(^^)v |
| ■〔映画鑑賞メモVol.12〕『ローズ・イン・タイドランド』(2005/テリー・ギリアム) |
◆◆鑑賞前メモはこちら~ こんにちは、ダーリン/Oh-Wellです! ![]() ここ東京では、8月に入ってからというもの、じりじりと熱くなり過ぎない気持ちの良い夏の晴天日が続いています! さて、私、8月の始めにはお盆休み前の“プチ休暇”を取っていたりもし中々ブログの更新が出来なかったのですが、ともかく、これから暫くはのんびりと更新、更新未満^^等々して参る所存です。 えぇ、今回は、中々エントリーが出来ぬままだった『ローズ・イン・タイドランド(2005/テリー・ギリアム)』〔◆IMDb〕の鑑賞メモを残しておきます。 **ネタバレ注意 『ローズ・イン・タイドランド』は、僕に取っては、一つには、少年(/少女)期の一面であろう自閉的なひりひりするような痛々しい部分をも含む内面性が反映された、小さくもあり、また、取り留めの無いようなものでもあろう世界観、そんな、一様な形や言葉に納まりようがない世界観を、ギリアムなりの確信を持っての創造性でヴィジュアル化し得た作品だと思えています。 ![]() また、映画の主舞台となる、あのテキサスの草原地帯からは、10歳ほどの少女“ジェライザ=ローズ”(ジョデル・フェルランド)が来る日も来る日もそれを目に納め心を弾ませて遊ぶには十分な視覚的空間的広がりを持っているように思えました。しかし同時に、あの草原地帯というものは、地平的に途轍もなく大きな広がりを持っているようには感じさせない空間性があったかと思います…。 ただ、この、草原中に於けるヒロインの特定の遊び場(―祖母の屋敷内はもとより、逆さになったスクール・バスの中やら、劇中、ヒロインの唯一の友人とも為る“ディキンズ”が大木の傍に作った“潜水艦”内やら…)には、物理的広さ・大きさとは別種の濃密な空間性を感じ取れもしました。 ![]() (―ヒロインの遊び相手、友達は、上述したディキンズに加えて、あのスクール・バスの中でヒロインの傍を飛び交っていた蛍たち、そして、あの頭だけの四つのバービー人形たちがありますね。映画のエンディングに於いては、ヒロインの傍にバービー人形たち、ディキンズの姿は最早無い…) ![]() 上述したような、僕が本作に感じ取った『ローズ・イン・タイドランド』の小さくもあり取り留めの無いようなものでもある世界観、また、あの草原風景の有限性とでも云ったものは、僕の中では、ギリアムがモンティ・パイソン時代にテリー・ジョーンズと共同監督した『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』(1975|※下Ph)と、主にある一点に於いてだけ重なるところがあります。詳細は措きますが、この『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』という映画に於いては、伝説上のアーサー王と円卓の騎士たちによる聖杯探しの旅を描く遥か中世の地平が、終盤で突如断絶されるような状況と相成る訳なのですが、 ![]() 『ローズ・イン・タイランド』に於いても、矢張り、映画終盤に於いて、この草原地帯を断絶させてしまう状況というか光景(―そこには、何やら途轍もなく無く巨大な規模に見て取れる土砂採取工事だか何らかの巨大施設を建造する為の整地工事だかが進行した大地が広がっている…)が突如示される訳です。 ![]() この草原風景に僕が感じ取っていた有限性とでも言ったものは、一つには、これが、予(あらかじ)め失われつつ在る風景であったからなのでしょう…。 さて、『ローズ・イン・タイドランド』は、草原に始まり草原で終る。日中(ひなか)の草原に始まり真夜中の草原で終る。ただ、その草原は、実は、まさに映画の冒頭がそうであるように、劇中何度かヒロインが想起する海のイメージにも重ね合わされる。 この海のイメージは、その生前から、クスリを打つことで憧れの地“ユトランド”(―デンマークの干潟地帯らしい…)にトリップを重ねていた父親ノア(ジェフ・ブリッジス)の影響と、そして、ヒロインが両親の生存中から愛読していた『不思議の国のアリス』の影響が相俟ってのものとは言えるでしょう。 詳細は省きますが、ヒロイン“ジェライザ=ローズ”は、母親の急死後、父親に連れられ、祖母が住んでいたテキサスの草原中の一軒家に移り住んでくる。 ![]() 父親はこの草原が広がる故郷/新天地にやって来て屋敷の中に落ち着くやいつものようにクスリを打ってトリップ、そして、中々目覚めない…。 そんなある日、ヒロインはハチに刺されて白濁した右目を持つ“デル”(ジャネット・マクティア)と云う女性に出会い、 ![]() 程なくして、その弟である“ディキンズ”(ブレンダン・フレッチャー)とも出会い、彼らと交流を重ねて行くようになる。 ![]() ディキンズは脳手術を施されて10歳ほどの知能しかないことが劇中ディキンズ自身によってヒロインに明かされる。彼は、姉の剥製制作を手伝ってはいるが、これまた、ヒロインに明かすところでは、この海原のような草原に不意に現れる巨大鮫を仕留める夢を持つ“巨大鮫ハンター”たる潜水艦艦長でもある…。 ![]() 観客は、この、俄(にわ)かには正体を掴み切れぬディキンズと、そして、その姉デルが、ヒロインのパパと祖母に因縁浅からぬ人物であることを徐々に知らされて行くこととも為る…。 ともかく、初鑑賞した限りで言いますと、僕に取ってのこの映画時間は、ジョデル・フェルランド扮する美少女“ジェライザ・ローズ”が目の当たりにするさまざまな現実、彼女が浸る夢想、あるいは、それらが相俟つようなものを、心地好さと痛々しさの相半ばするような思いで見つめてしまうがままだったように、今、思い起こします。 僕に取っての圧巻部は、あの終幕近くに於ける、『サイコ』(1960/ヒッチコック)の母屋とも似た不穏な空気感がたちこめて来る、姉弟の住む屋敷内での凄惨なクライマックスからヒロインが現実に目覚め始める前段階を示したようなエンディングにかけての映画時間。 あの列車脱線事故は、それ以前のヒロインとディキンズとが絡む一連のシーンを見ていれば予測のつく悲劇かと思えますし、物語上の流れとしても必然ではあるかとは思うものの(―列車の脱線は、すなわち、ヒロインの悪夢的な旅/日常の終焉を暗示しているのでしょう)、不思議なほどに唐突感を持って僕に迫って来るものでした。 ともかく、ここエンディングの事故現場に於いては、ヒロインには最早両親も身寄りも無いことに加え、バービー人形も、そして、おそらくは、ディキンズも失っている…。そんなヒロインに、事故に遭った乗客の一人が「一人(旅)?」とでも声を掛け、食べ物を分けえ与える。 そんな二人の頭上に、映画冒頭ほどでも示された逆さになったスクール・バスの中でヒロインの傍を飛び回っていた蛍たちが再び現れる。その蛍の発光を映したヒロインの瞳が宵闇の中に浮かびあがる、そのしばらくアップで示された瞳は黒味の背景にフェイド・アウトし、そのまま、黒い背景のエンディング・クレジットに繋がって行く…。 本作を大まかに顧みて、今、思うことの一つは、ここにあった幾つかのイメージ、ヴィジュアルに対する僕の感じ方と云うものは、いつ鑑賞しても一様なものに収まるようなものでは無さそうだということ…。 つまりは、本作に於いては、初鑑賞の際には心地良かったイメージが、別の鑑賞の機会には、その映像の持つ良し悪しなどとは別のところで不快に感じ取れてしまうかもしれませんし、また、醜悪にしか思えなかった部分に目を瞠ったり愛おしく受け止められたりすることも有り得るのではないかと、まぁ、漠と、そんなことを思ったりしている訳です。 ともかく、本作に紡がれたイメージ、ヴィジュアルは何かを観客に強要するためのものでは無さそうだ…、それは、僕が素朴に思えているところです。 (※8月8日昼、一部追記。) 〔※当ブログ内の関連記事〕 ■〔映画雑談Vol.19〕『ローズ・イン・タイドランド(2005/テリー・ギリアム)』 ―鑑賞前メモ(※尚、今夏日本公開予定) 〔※本エントリーは、以下のサイトともリンク中〕 ** ローズ・イン・タイドランド@映画生活 |
| ■〔映画鑑賞メモVol.11〕『2番目のキス』(2005/ボビー・ファレリー 、ピーター・ファレリー) |
●●7月29日(土) こんばんは、ダーリン/Oh-Wellです。 私め、この金曜日からあれこれと所用が重なり、この一両日に頂いたコメント、TBへのお返事が叶っておりません。大変申し訳ありません。m(_ _)m この、土、日にかけて追って必ずや!((^^; さて、この3日ほどは、日中にはそこそこに夏らしい青空ものぞきましたし、愈々、週明け月曜日頃までには梅雨も明けるのではないかと云う、僕なりの予感があるのですが。はてさて…。 ![]() ―さてさて、本日は、7/25(火)にエントリーしてから未完成のままに為っていた『2番目のキス』の鑑賞メモの続きです! ***ネタバレ注意 『2番目のキス』〔◆IMDb〕は、ボビー・ファレリー、ピーター・ファレリーの兄弟による、『ふたりにクギづけ』(2003)に続く共同監督作品。 ファレリー兄弟作品としては、これまでの毒気の多い、あるいは、生理的嫌悪感をもよおさせる描写の多いものからすれば、キャリア上最も素直なドラマ性とルックを持つ映画、恋愛御伽噺ではないかと僕は受け止めました。ただこれは、繰り返しになりますが、あくまでも、過去のキャリアと比較した場合の思いではあります…。(笑) ![]() 本作は、その幼少時から、MLB最古参球団の一つであるボストン・レッドソックス(※1893年に球団発足。1901年のアメリカン・リーグ創設時から当リーグに所属)の熱狂的ファンである高校数学教師のベン(ジミー・ファロン)、そして、ビジネス・コンサルタントで成功を収め、さらなるキャリア・アップを狙うリンジー(ドリュー・バリモア)、 このふたりの男女の出会い、恋の始まり、恋の過程と顛末が、レッドソックスの実に86年ぶりにワールド・シリーズを制覇するまでの彼(か)のチームの決して順風なままに優勝を勝ち取った訳では無いが故(ゆえ)に、多くのファンに取っては奇跡的とも神話的とも捉えられたであろうシーズン、その“スポーツ史実”と上手く綯(な)い合わさって描き表わされている。 僕など、一つには、愛すべき笑顔を持った映画女優ドリュー・バリモアの生き生きとしたスクリーン上の表情、姿を眼差しているだけでも幸福な心地となる映画でしたし、 また、ジミー・ファロン扮する主人公ベンの単に野球オタクに納まらぬ、人好きのする明るく朗らかなキャラクター性も、劇中、僕の心を惹きつけてやまぬものでした。 映画の主人公ベンは30歳の高校教師(―その授業には、何故だか、小学生、中学生と思しき男女も混じっていたような…。彼らは飛び級で高校進学したエリート、天才児という事なのかもしれませんね…)。7歳の時、両親が離婚し母親と共にボストンに移り住む。友人の居ない孤独な日々を送るある日、レッドソックスのシーズン・チケットを持つ伯父に連れられてフェンウェイ・パークに足を運ぶ。そこで目にするすべてに瞳を輝かせる7歳のベンは、以後、レッドソックスへの変わらぬ情熱を持ち続けて今日に至っている…。 ![]() まぁ、この気取らず、無邪気で温かみのあるカップルこそは本作の一番の肝かと思う訳ですが、 本作のもうひとつの大きな強味は、MLBを知るものにはよく知られる“バンビーノの呪い”(―1920年、レッドソックスの時のオーナーは、経営難を理由に球団の看板選手であったベーブ・ルースを当時の弱小球団であったニューヨーク・ヤンキースに12万5千ドルで放出。以後、両球団の立場は逆転。レッドソックスはヤンキースの後塵を拝するばかりのシーズンが続き、ワールド・シリーズ制覇からも1918年以来見放されたままとなる…。ともかく、多くのレッドソックスファンたちは、ベーブ・ルース放出後に於けるレッドソックスのあらゆる悲運、悲劇を“バンビーノ(―※ルースの愛称)の呪い”として受け止め、今日にまで(?)至っている)に呪縛されていた、往年の強豪チームであるレッドソックスが、2004年のシーズンにプレーオフ進出し怨敵ヤンキースを0勝3敗から起死回生の4連勝で破ってのリーグ優勝、さらには、ワールド・シリーズを4連勝で制覇するまでの歴史的なシーズン中の要所要所の試合が、彼(か)の球団の本拠地フェンェイ・パークで撮影された俳優たちの演技、姿と共に納められていることでしょう。 レッドソックスの中心選手であり人気スターの一人であったジョニー・デイモンの何箇所かでの本人出演シーンにも、僕など、楽しく目を瞠りました。(―※尚、デイモンは2005年シーズン・オフにFAでヤンキースに移籍) 本作の、この兄弟の監督作品としては妙に小綺麗でさらっとした印象の脇役たちの姿、キャラクター描写、また、映画の流れようには、僕などのように彼らのもっと強烈なものに免疫の出来ていた(笑)者に取っては何箇所かでやや物足りなさを感じ取りもしましたが、これは、ファレリー兄弟が意識的に、これまでの「過剰なしつこさ」を「しつこさ」程度に抑えて観客を楽しませる映画を試みたが故(ゆえ)のものかもしれません。 ただ、そんな中でも、リンジーの友人中で最も彼女をライバル視するロビン(ケイディー・ストリックランド/KaDee Strickland|※下Ph右端)、そして、その亭主クリス(ジョニー・スニード/Johnny Sneed)の資産家夫婦それぞれに見て取れる中々身勝手なキャラクター性やら、リンジーの父親の、飼い犬をも怯(おび)えさせてしまう髪型…リンジーの母親がヒロインに語るには“精神的危機ゆえに突如変えた”というその髪型の視覚的可笑しさやらは、僕には、特に忘れがたいもの。 ![]() そう、主人公がスタジアム観戦する際の長年の観戦仲間たちは、野球音痴のリンジー、延いては、僕ら観客に、レッドソクッスという由緒ある球団の歴史やら、レッドソックスを応援することの、何と云うか…、無償性(笑)やらを巧まずして教えてくれる大切な存在でしたね。 ともかく、主人公が伯父から譲り受けたシーズン・チケット(―レッドソックス側ダックアウト裏!)と云う、それ自体が少年心、プロ野球好きの心情を掻き立てて止まぬ甘美で特権的なもの、そんな特等席で、主人公が恋人と共にレッドソックスのホーム・ゲーム観戦に一喜一憂する姿、さらには、そこでの、長年の顔馴染みとの無償なるレッドソックス愛の交歓ぶりが醸し出すものの心掻き立てて止まぬ甘美さは、本作の最たる美点の一つに僕は思えた次第です。 そして、二人が恋を育む時間とレッドソックスの浮き沈みのあるシーズンが綯(な)い合わさっての映画時間は、先のわからぬ恋というものと、矢張り先の読めぬスポーツという勝負事が負う部分が重なって行く事で中々妙味なサスペンスとも相成り、僕などは、わくわくとしたままクライマックスへと誘導されて行きました…。 あの、9月のレッドソックス不振期、ベンはヤンキース戦の観戦を取り止めてリンジーと一緒に、あのロビンの豪奢な誕生パーティーに足を運ぶ。 ![]() その夜、2人はそれまでになく深く結ばれる。ベンはベッドで「人生最高の夜だ」とリンジーに真心からの愛の言葉を捧げる…。そんな夜、ベンは友人からの電話によって、レッドソックスが9回裏に7点差をひっくり返して大逆転勝利を収めたことを知らされる。ベンの態度は豹変し、そんな球団史、延いては、MLB史に残る試合を見逃してしまった後悔の思いを子供のようにやみくもにリンジーにぶちまけ、それまでベンと確かめ合った深い愛の余韻に浸っていたリンジーは「あなたは私の心を傷つけた…」と、ベンに対してぱったりと心を閉ざしてしまう。 その後球場に足を運んでも心が沸き立たず、ヒロインに対する後悔の念が募るばかりのベンである訳ですが、仕舞いには自己嫌悪から自宅に引き篭ってしまいもする…。 以後の二人の恋の顛末の詳細は措(お)きますが、主人公はレッドソックスが何とか勝ち上がってのヤンキースとのプレーオフ第4戦目(―ここまで既にレッドソックスは3連敗)をクリスと一緒に観戦する中、リンジーの心を取り戻さんと、予(かね)てより、シーズン・チケットを譲渡してくれるよう自分に懇願し続けていたクリスに、伯父が残してくれた掛け替えの無い宝物を、かつてレッドソックスがヤンキースにベーブ・ルースを売り渡した際のトレード・マネーと同額の12万5千ドルで譲渡・売却することになる…。(―※余談ながら、この、ベンによる一大決断は、例えば、僕の友人のように「リンジーへの思いを断つため」と云う解釈も出来得るようには思いますが、僕としては上述した「リンジーの心を取り戻さんと」した上での決断と受け止めました。) 一方、同じ頃、リンジーは予(かね)てより望んでいた会社内の昇進を手にする。その祝賀会のスピーチの席上、「私のためにチケットを売るのね。自分はベンのように犠牲を払ったかしら…」と呟くやその場から飛び出し、ベンの契約書へのサインを阻止すべくフェンウェイ・パークへと急ぐ。 リンジーがスタジアムに辿り着いた時は既に試合8回裏。彼女は外野席をダフ屋から入手し満員のスタジアム内へ。すぐさま、双眼鏡をのぞいて、ベンとクリスがいつもの席に居て、ベンが契約書を手にしていることを確かめる。そして、ベンが仲間たちに非難されながらも、震える手でまさに契約書にサインをするかと云う時、リンジーは、あの、MLB屈指の高さを持つフェンウェイ・パークの外野フェンスにグラウンド内に飛び降りんとぶらさがる…。そして、グラウンドに飛び降りたリンジーはすぐさま靴を脱ぎ捨てダックアウト裏のいつもの席に座るベンに向かって芝生のフィールドを警備員たちをかわしながら走り抜けて行く。 この、僕に取っては、劇中最大の心的クライマックスを生み出したリンジーの姿は、ベンがシーズン中すべてを投げ打ってレッドソックスの応援に捧げるエネルギーに匹敵するような、迷いの無い一途なエネルギーが迸(ほとばし)る姿だったかと思い起こします。 ここには、傍(はた)から見ればみっともない姿や行動であろうが、そこに主人公たちの他者への真っ直ぐな思いが迸(ほとばし)っていることが見て取れる感じ取れるがゆえに、僕ら観客が心を掴まれ揺さぶられ奪われてしまう、まさに、ファレリー映画ならではの一大クライマックスと言い得る映画時間が在ったと僕は受け止めました。 ともかく、このファレリー兄弟による監督最新作は、僕に取っては、小品ながら、その映画時間すべてがハッピー・エンドの余韻に収斂して行くような、愛すべきアメリカ娯楽映画であったことは、ひとつ素朴に言えそうです。 ![]() ―尚、以下は、7月28日以前に置いておいた文章、Phです。 ●●7月25日(火) こんにちは、ダーリン/Oh-Wellです。 この7月ももう残すところ数日…。 先ほど(―14時過ぎ)外に出たところ、久々に青空がのぞいているのが目に入ってきましたが、 さて、今月中に梅雨は明けるのでしょうか…。 しかし、この5月初旬からの3ヶ月ほどですが、ともかく物凄く日照時間が少ないですよね…。 ここ3ヶ月にわたるかのような長雨の所為で少なからぬ人が疲れを溜めがちかと思いますし、まぁ、ブロガーの皆さん、お互いにのんびりと更新して行きましょ~(←余計なお世話^^) ![]() ◆◆さてさて、私め、先の金曜日から日曜日に架けては、新宿歌舞伎町での某筋^^の飲み会に参加したり、新作映画に2本足を運んだりして参りました。鬱陶しい天候続きではありますが、あれやこれやで楽しい週末と相成りました!(^^)v ![]() そう、映画の方は、金曜日(7/21)に『ローズ・イン・タイドランド(2005/テリー・ギリアム)』〔◆当ブログ内関連エントリー◆IMDb◆Movie Walker〕を、 ![]() そして、一昨晩(7/23)は『2番目のキス(2005/ ボビー・ファレリー 、ピーター・ファレリー)』〔◆IMDb◆Movie Walker〕を鑑賞。 ![]() 僕としては、まず大雑把に言えばですが、 前者『ローズ・イン・タイドランド』は心地好さと痛々しさが相俟つ、しかし、魅惑的な悪夢的ファンタジー、そして、後者『2番目のキス』は心地良い幸福感が残る愛すべき“恋愛コメディ”でありハリウッド娯楽映画であり…と云ったところ。 ギリアム(※下Ph)、ファレリー兄弟とも、僕に取っては気の置けぬ映画作家ですから、 ![]() それぞれの新作にそれぞれのレヴェルでもって耽溺できた事は大きな喜びです! ![]() さて、当エントリーでは、まず、ファレリー兄弟(※上Ph|左=兄のピーター、右=弟のボビー)の新作映画『2番目のキス』の鑑賞メモを残しておきます。・・・ ―てな案配でもって、さらに、「鑑賞メモ」を続けたいところでは有ったのですが…、(^^; 先週から突発的な仕事も少なくなく、今夕は北陸から上京する友人とその彼女さま^^とのディナーがあったりで、今、ゆっくりと映画を顧みる余裕がありません。 これは、また、明後日…以降((^^;にでもエントリーできればと思う次第です。 つまりは、以下の通り。^^ (※後刻、後日に続く...) ―相済みません、それでは一旦失礼を~! 〔※本エントリーは、以下のサイトともリンク中〕 ** 2番目のキス@映画生活 |
| ◆『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』(2005/トミー・リー・ジョーンズ)鑑賞プチ・メモ他 |
こんにちは~、ダーリン/Oh-Wellです。 G・W二日目、 ここ東京は朝から気持ちの良い晴天日です。 ![]() さて、私め、先の金曜日(4/28)は、この日が上映最終日となった『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』(2005/トミー・リー・ジョーンズ)の鑑賞を、無事、果たして参りました。 ―本作について、今、簡単な所感だけメモしておこうと思います。 (※以下、中途半端なままで終わっていた文章に追記して5月17日に完成させました~!) (2005/トミー・リー・ジョーンズ)鑑賞プチ・メモ ***ネタバレ注意 ・・・そう、例えば、メキシコと国境を接するアメリカ南部/南西部・テキサスのさまざまな意味合いで荒涼とし乾いた肌理と云うものが、 その、劇中映し出される、さまざまの自然風景からはもとより、 劇中何度も示される田舎町のダイナーの店内に立ち籠める倦怠の空気感やら、また、国境警備隊員の夫であるマイク(バリー・ペッパー)と共にこの地にやって来た若い妻“ルー・アン”(ジャニュアリー・ジョーンズ|※下Ph)の視線を通して垣間見せられる窓の向こうの光景がまとっている間延びしたような倦怠感やら、 したたかそうな年配ウエイトレスであるレイチェル(メリッサ・レオ)のルックや、また、このレイチェルの、そして、“ルー・アン”の煙草を吸うそれぞれの姿がそれぞれに醸し出すものやら、 さらに、二人のミュージシャンによって演じられるキャラクターの醸し出すもの… ―等々からによっても、僕に取っては中々印象深いものとして感じ取れ、じわり余韻が残るところと相為りました。 ![]() *** 先の二人のミュージシャンですが、 その内の一人、主舞台の一つとなる田舎町のヴェテラン保安官であるベルモントに扮したドワイト・ヨーカムは、ケンタッキー生まれの人気カントリー歌手、 そして、テキサスの荒野にぽつねんと在る一軒家に孤独に住まう、もはや、生き甲斐も無くしつつある「盲目の老人」に扮したのが、ザ・バンドのドラマーだったレヴォン・ヘルム/Levon Helm!!〔⇒◆IMDb◆公式サイト:LEVON HELM STUDIOS◆◆7/2、「レヴォン・ヘルム覚え書き」をエントリー!〕 ![]() スコセッシ)より。左から4人目がレヴォン・ヘルム。 特に、後者は、僕も大好きなロック・ドラマーの一人ですし、 エンディング・クレジットで、その老人を彼が演じていたことを知りましたので、その老けっぷりを含めたキャラクター作りに吃驚しましたし、感慨ひとしおと相為った次第です。 本作品はトミー・リー・ジョーンズの映画監督処女作な訳ですが、 メキシコ人脚本家ギジェルモ・アリアガ/Guillermo Arriagaによる、何箇所かで時間の流れを前後させてストーリー/映画の流れを紡いで行く語り口・構成を持った脚本を得て、ジョーンズの方はと言えば、一つには、自らの内に在るヴィジョンというものを思い切ってストレートにキャメラに収めて行くことに専念していたのでは無いかと思えました。 例えば、本作で示されて行くテキサスは乾いて荒涼とした肌理を持ちつつも、先述したダイナーの内外、さらには、昼間のモーテル、そして、乾いた荒野とひと続きの印象をも醸し出す「盲目の老人」の住む質素で閑散とした一軒家のシークェンスなどでの視覚的余韻などとも相俟って案外視覚的ニュアンスに富んでいたかと思い起こしますし、 また、一方のメキシコは、荒涼としながらも、テキサスにある以上に突き抜けた陽光の明るさが屋内外に感じられ、 ![]() また、日中のカフェなどに流れるゆったりとした空気感などが印象的で、それらに視線を委ねて、寂寥も心地良さも同等に感じ取れ、僕に取っては中々新鮮なものとして受け止められました。 さて、主人公ピート(トミー・リー・ジョーンズ)は、テキサスにある自分の牧場にふらりと流れやって来たメルキアデス・エストラーダ(フリオ・セサール・セディージョ)を不法入国者であるにも関わらず働き手として招き入れる…。共に働く日々の中でピートとエストラーダは信頼、友情を育んで行く。 ![]() そんなある日、エストラーダはマイク(バリー・ペッパー)に誤まって国境付近で射殺されてしまう。 そして、ピートは警察がマイクの失態を隠蔽しようとしているのを察するや、ある夜、ピートが自宅に戻るのを待ち構えて家内に押し入り彼を拉致、そして、警察が埋葬した無縁墓地(/共同墓地?)からエストラーダの死体をマイクに掘り起こさせ、その死体を馬に載せエストラーダが生前に自分の故郷として口にしていたメキシコの“ヒメネス”と云う村へとマイクを引き連れ運んで行く訳ですが、 エストラーダの死体を不法に持ち出し、また、マイクを攫(さら)って行ったピートを、先述したベルモント保安官(ドワイト・ヨーカム)が一旦は追って行きますし、国境警備隊のヘリ出動やらもあるものの、ハリウッド常套のドンパチ的アクションに持って行かない辺り、追跡ものにしなかった辺りなども、矢張り、中々新鮮に受け止められました。 また、 **ベルモント保安官の追跡の際の断念の姿、 **“ルー・アン”(ジャニュアリー・ジョーンズ)が夫への執着を絶ち町を去って行くあたり、 **「盲目の老人」の機転が国境警備隊を引き返させるあたり(―詳細は省きますが、ピートら一行は老人の家に立ち寄り、死体を腐らせぬために不凍液を分けてもらう…。また、老人は、2人に食事をふるまい、ピートらが去ろうとする間際に、「あんたらは良い人間だ」と微笑み、「ワシを撃ってくれないか、自殺は神に背く…」と依頼するもピートは拒否。しばらく後、国境警備隊が老人の家の前に現れる。一人の隊員が老人に「誰か来なかったか? 男2人と馬、騾馬、…見なかったか?」と訪ねると、老人は「いや、ワシはこの30年間何も見とらんよ」等と受け流す)…、 ―これらのシーンでの、どこか、あっけらかんとした後味も妙味かつ新鮮でした。 僕に取って、劇中の圧巻たるは映画終盤。 ついにメキシコに入り或る町に辿り着くピートとマイク。しかし、ここで探し出したメルキアデスの妻と思しき女性に「メルキアデスなんて知らない」と言われ、また、年配の名士のような男に尋ねても矢張り「そんな男は知らない」「ヒメネスなんて村は無い」等と返されるばかり。 ピートは、マイクに「騙されたな」と口にされるも、「いや、違う」と尚も馬を走らせ奥地へと…、そして、或る廃墟のような場所に辿り付くと、ピートは「ここがヒメネスだ…」と口にし、マイクは穏やかに「そうだな、やっと見つけたな」と言葉を返す…。 ここでは、日中(ひなか)の廃墟が突如、かつてメルキアデスがピートに語った「そこを見たら美しさに胸が張り裂けるだろう」というヒメネスという地に、俄(にわ)かには見えて来ないまでも、不意に、僕自身が今“ヒメネス”を眼差しているかのようにも思えて来る! ともかく、ピートは廃墟然としたその地に友人を埋葬する。 斯様に、この終盤に於いては、ピートがメルキアデスとの約束を果たし得た姿を眼差すことでの感銘深さの前に、主人公にとっての“ヒメネス”が示される唐突さが圧巻でした。 *** ―そして、僕が本作で最も印象深いものは、 終幕に示される、友人を埋葬した地を去って行く主人公ピートを眼差すマイクのアップで示される顔。 劇中最初の登場シーンから暫(しばらく)の間は、その、特異な面立ち、荒んだ素振りでもって、不穏で不敵な印象を見る者に与えるであろうマイク、 そんな彼が、映画後半で、ピートに強引に拉致され、手錠を掛けられブーツを脱がされ、殴られ、命令され、脅されながら、メキシコ“ヒメネス”への長い道のりにつかされる。一旦は砂漠でピートから逃げ出すものの、身を隠そうとした洞窟では毒蛇に足を噛まれ、結局はピートに再び捕らえられ、まさしく身をぼろぼろにしながらメキシコまで引き摺られて行く訳ですが、そんな過酷な道行で、滑稽なまでにぼろぼろに為って行くマイクの姿は、遂には、僕などでも憐れを催すまでに為って行く…。 ![]() そんなマイクの描写があったからこそ、終幕に於いて、マイクがメルキアデス・エストラーダの魂に赦しを請う一途な姿は僕には説得力をもって迫り来るものでしたし、朝の陽射しの中での生れ変ったような穏やかさを湛えたマイクの表情が目映く忘れがたいものと為りました。 ![]() そして、ここに至るまでに僕が委(ゆだ)ねていた弛緩したような時間の流れの余韻とでも云ったものが、この終幕のマイクの顔を見つめながら、不意にほのかな切なさ、愛おしさを以(も)って、ぐわんと甦って来たように、今、思い起こします。 (※7月4日未明、一部追記。) (2005/ジョージ・クルーニー)』を鑑賞予定! さて、今日は、これから妻と新宿に出かけます。 少し、あれこれでぶらついた後に、六本木にて『グッドナイト&グッドラック(2005/ジョージ・クルーニー)』を鑑賞してくる予定です。 *** 本作に於いて、僕が素朴に期待するところは、 まず、スチルやTVスポットで見ている限りでの、主演を務めるデヴィッド・ストラザーン〔※下Ph右〕、そのモノクロ画面に映える硬質なルック、僕に取っては、おそらくはこれが初めての彼の演技体験となります。 そして、演技巧者、ロバート・ダウニー・Jr〔※下Ph中央〕の演技そのもの。 加えて、ジョージ・クルーニーが、この、アメリカは1950年代の「赤狩り」時代に、マッカーシズムに立ち向かった伝説的ニュース・キャスター、エド・マロー/Edward R. Murrowと番組スタッフたちの姿を、モノクロ撮影によって如何なる映画造形と為し得ているのか、と云ったところ…。 ![]() →◆『グッドナイト&グッドラック』(2005/ジョージ・クルーニー)鑑賞プチ・メモは、こちら! それでは、皆さんも良き日曜日を!! |
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