■〔映画評Vol.12〕『華氏451』(1966/フランソワ・トリュフォー) |
こんばんは~ 私事ながら、 この7月は、夏休み前で多忙でした、 それゆえ、ここひと月ほどは、TB、コメント頂いた方には あれこれご無沙汰してしまっておりましたが、 何とかピークは乗り越えましたので、 少しづつでも頂いたコメントにお返事をしたり、皆さんのブログ、サイトにご挨拶にお伺いしたいと思っております、 やはり、ブログ、サイト間で一方通行(ばかり)となってしまうのは僕の本意ではありませんので… ―と云った心掛けのもと((^^)、 来たる8月は、 7月以上にあれこれ更新して行く決意のダーリン/Oh-Wellであります、 今後も、道楽探究しきりの拙ブログになるかと思いますが、 ご常連の皆さま、新しく知り合えた皆さま、何卒宜しくお願い申し上げますm(_ _)m さてさて(^^)、 言葉…というものには、 音声によるものと、文字によるものがあるかと思うのですが、 心の中で思う雑念やら文字にならない思いは、一つには、“声にならない言葉”とでも言えるものではないかと僕は思っています、 そして、会話に於いても、文章に於いても、 僕自身を顧みて言えば、何ものかについて欲張りすぎて語ったところで、その何ものかについて完全に言い切れる/文字に表し切れる訳もないと思えますし、 一方で、ある事柄について、言葉を尽くせなかったにも関わらず、敢えて言葉にしなかった部分を含めて上手く気持ちが通じる場合があったりもするように思います、 *** また、例えば、 他人、特に、肉親でも親友でもない他人を不愉快にするような、余りに独り善がりな言葉……、つまり、余りに孤独、嫉妬、憎悪、欲求不満の反映であるような、結局は独り善がりそのものをあかの他人にぶつけるような行為を僕は嫌悪してしまいます、 結局はそれらによって より孤独に陥って行くのは、それを発する者自身でしょうね。 短いようで長い(/長いようで短い)一生なのですから、せめて、友人の一人も持てるよう……(後略)。 ……という訳で(^^)、 今回は、その映画を僕なりに大雑把に言えば「文字の無い世界を描いた映画」とでも為る、『華氏451』(1966/トリュフォー)について僕が以前に纏(まと)めたものをお披露目いたします。 繊細に紡がれた映像が導く胸を衝くテーマ性 ***ネタバレ注意 映画は赤、緑、青、紫、黄などのフィルターを通して捉えたさまざまなTVアンテナのモンタージュから始まる。ここではタイトル“Fahrenheit 451”(『華氏451』)、キャスト、スタッフがナレーターの声で示され、タイトルを示す文字、オープニング・クレジットの文字群は無い。 続く主人公モンターグ(オスカー・ウェルナー)を擁する消防隊の出動シーン。 ここには緊急出動の緊迫感などはおよそ希薄だ。消防隊の事務的/官僚的、ロボット的な動作、身振りを冷ややかに際立たせるようなイメージとバーナード・ハーマンの木琴を駆使したスコアとが相俟って、この出動シーンは緊迫感というよりも漠とした不穏さが醸成されて行く。 現場に向かう消防車のモンタージュ・シーンは、若い男がくつろぐ部屋へと転じる。 そこに電話のベルが鳴り響き、受話器を取った若い男にキャメラが4度カットインする中、電話向こうから「大急ぎでそこから逃げて!」と女の声が警告。近づくサイレンを耳にするや若い男は部屋を飛び出して行く。 消防車が集合住宅に到着。件の若い男の部屋に踏み込んだ隊員たちは黙々と部屋を捜索し、あちこちに隠された本を見つけ出し袋に詰め込みベランダから外へ放り落とす。それらを主人公が火炎放射器で躊躇無く焚書(ふんしょ)処分する。 ここに於いては、「しかし、何故本を焼くのだろう?」という疑問が観客個々のレヴェルで生じもしよう。しかし、消防隊長が任務を終えた主人公に口にするのは「違反なのに何故本を読むのかな」という、観客の思いとは正反対に在るような言葉だ。 斯様に、トリュフォーはトップ・シークェンスで既に観客を文字、活字が抹殺されつつある“異世界”へと誘い込んでいる。 先述したように、映画のタイトル、主要キャストやスタッフは文字に拠らずナレーターの声で示され、登場人物が自宅やモノレール内で広げる新聞形態の印刷物にはコマ割されたコミック調の絵が在るばかりで文字は見当たらない。さらに、消防署や消防隊員を示すのも文字には拠らず、“蜥蜴(とかげ)”のデザインと“451”という数字に拠る。 そう、本作では本の表紙やその中身が示される画面、市民にあてがわれた数字による管理番号、そして、“THE END”が現れる画面以外には文字が徹底して排されているのだ。 *** 本作のキャラクター造形に於いて印象深いのが、登場人物の鏡像的な姿の現れようだ。 幹部の声が掛かるほど優秀な消防士であった主人公は、近所に住むクラリスという女性との出会いによって本に目覚め活字が紡ぎ出す知識や物語に没頭して行く。主人公の妻リンダは夫が家に持ち帰る本を畏れ夫を密告する。 ―この二つのヒロインは、ジュリー・クリスティによって演じ分けられている。 小学校教師見習いのクラリスは快活で社交的、一方のリンダはやや神経質で内向的だ。 アントン・ディフリングという俳優は主人公にいつも冷ややかで敵対的な視線を向ける同僚フェビアンを演じ、さらに、小学校を解雇されたクラリスが主人公と学校を訪れた際に教室のドアからフェビアン同様の冷ややかな眼差しを送る女教師に扮する。 映画終盤、主人公は組織に反逆し、クラリスから教えられた“本の人々”が共同生活するコロニーへと逃走。ここで主人公は、権力側に拠って捏造された“贋(にせ)のモンターグ”が街中で銃殺されるTV中継をコロニーのリーダーと一緒に眺めながら過去の自分と訣別する。 トリュフォーは登場人物の鏡像によって、一人の人間や組織の不完全性を示唆しているように思う。 *** 映画終幕に描かれるのは“本の人々”。 彼らは自ら選んだ本の表題をコロニーでの名とし、絶滅間近い本を一冊丸々覚えるとその本を焼く。 ここ終幕に於いて静かに僕の心を奪うのが、老人と少年によって示される、本(物語)が伝承される瞬間だ。 コロニーのリーダーが主人公に示す川縁のテント。 そこでは余命幾ばくも無さそうな老人が甥(おい)たる少年に或る物語を伝授している。 老人は体を横たえたまま淡々と物語を諳(そら)んじ、少年は無心にそれを繰り返す。 画面がオーバーラップするとそこは銀世界に一変。 キャメラが川縁のテントに寄って行き、程なく少年のクロースアップに切り替わる。 物語終幕の一節ほどを諳んじた少年の顔が輝く。 キャメラが老人に切り替わると、老人の目は閉じられている… キャメラは少年に切り替えされる。 少年の視線は漠と宙に在るが、その瞳は輝いている。 少年は物語の最後を諳んじる。 このシーンは、件のリーダーが主人公に語る「本が再び書かれ出版される時のために、一人一人が一冊ずつ本を記憶し伝承して行く」といった云わば本作のテーマ性を情感を以って明示していよう。 ラスト。 雪降り頻(しき)る中、本を諳んじる人々が森の中を思い思いに歩いているさまが奥行き感のある構図で示される。人々が幾重にも行き交いさまざまな言語が交錯して聞こえてくる。 彼等の一心な身振りが音(声の重なり)と映像に収斂し僕の胸を衝き揺さぶる。 〔当ブログ内の関連記事〕 ■〔映画評Vol.1〕『アメリカの夜』(1973/フランソワ・トリュフォー) ■〔映画人物評Vol.2〕バーナード・ハーマン |
by oh_darling66
| 2005-07-30 23:58
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