■〔映画評Vol.9〕『**********』(200*) |
こんばんは~! やっとやっと週末だぁ~ *** ―さて、 僕は先日(4/6)、スタンリー・キューブリックという映画作家に少し触れさせていただいた訳なのですが、 キューブリックが作品を発表した後には、 その一場面なり撮影技術やその成果なりが、さまざまな監督たちによって、さまざまなレヴェルで引用されて来たように思い起こします。 ただ、しかし、 キューブリックの為した映画造形に果敢に挑んでのキューブリック映画の再映画化とでも云ったケースとなりますと、これまでには僕の知る限り無かったように思います。 人によって解釈は分かれるかと思いますが、 1997年に製作された『ロリータ』は、キューブリックによる1961年製作の『ロリータ』(※右Ph)に果敢に挑んだと言うよりは、キューブリックが(/も)扱ったナボコフによる原作をエイドリアン・ライン監督なりに映像化したものに過ぎぬように僕は思えています。 また、 例えば、ヒッチコックを敬愛するブライアン・デ・パルマが、自作の骨子に相応する部分をデ・パルマにとって偉大なる先達と言えるであろう、そのヒッチコックが遺した映画から大胆に持って来てしまうような愛すべき(^^)ケースなども、 …そう、 キューブリックと他の映画作家との間に於いてはこれまで見受けられた例(ためし)がないように思えます。(―ヒッチコックを敬愛するデ・パルマに関しましては、後日何らかの補足をしたいと思っております!→10月19日、■〔映画雑談Vol.12〕ブライアン・デ・パルマ監督最新作“The Black Dahlia”/ブラック・ダリア(※2006年全米公開予定)&“ヒッチコキアン”ブライアン・デ・パルマへの雑感etc.をエントリーしました~) *** ただ、実は、 キューブリック映画に僕らが見たはずのものを、随分軽々と自作に持ち込んでいる映画、映画作家が、僕に取ってはたった一つだけあり、たった一人だけいるのです。 今宵は、僕が劇場で一度鑑賞しただけながら、勢いで書き纏(まと)めてみた『**********』評をお披露目いたします。 ◆右Phは1997年製作の『ロリータ』(※スクリーンを見詰めるヒロイン“ロリータ”役はドミニク・スウェイン) ―さて、 時は過ぎ行き、現在は「05/4/17 1時50分」あたり...では続きをどうぞ~ 脆(もろ)さと強靭(きょうじん)さを以って輝くキャラクター性 ***ネタバレ注意 『グッバイ、レーニン!』は、主人公アレックスとその母親クリスティアーネのキャラクターが立っていることが最大の美点だろう。この二つのキャラクターの輝き故に少々緩いイメージも含めて画面に見入ってしまう。 また、主人公に“アレックス”の名が冠されたこのドイツ映画が纏う“忙(せわ)しなさ”は、東ドイツ(ドイツ民主共和国)と云う国家に唐突に訪れた一大転換の反映として在り、また、ベッカー監督のキューブリック・コンプレックス如きものが時には上滑りに画面に示されるが故に在るように思う。 例えば、 本作に在る、『時計じかけのオレンジ』(1971)での札付きの不良たる主人公アレックスが少女2人を自室に連れ込んでのセックスを固定キャメラで捉えた映像を早回しで示すシーンを捩(もじ)っての、病院から退院する母親を迎える部屋を模様替えするシーンにしても、 主人公の所謂(いわゆる)映画狂の友人が撮影した映像に在る、『2001年宇宙の旅』(1968)中の「猿人が空高く放り投げた骨が大気圏外に在る宇宙船へと転じる」イメージの捩り方にしても、 キューブリックの産み出したイメージとの無邪気な戯(たわむ)れとでも云った以上のものは感じられない。 また、主人公が看護士の恋人と暮らし始めたアパートで彼女の看護実習の試験台に使われているシーン。此処、アパートのバスタブで包帯を全身に巻かれ手足にギブスを嵌(は)められて身動きが取れないでいる主人公の姿は、『時計じかけのオレンジ』終幕の病院ベッドに在る“札付きアレックス”の姿に近しいものだろう。 兎も角、それらは微笑ましくこそあれ、然したる妙味、新味を以って僕の心を掴むものではない。 ****** 本作で『時計じかけのオレンジ』に在るものの変奏なり援用(えんよう)なりが試みられているとして、そこに新たな独自性をも見い出せるが故に僕を惹き付けるものは、主に、ベッドから出られぬ(―詳細は省く)母親を擁したシーンに於いてあり、母親思いの好青年たる主人公から垣間見えて来る脆(もろ)さや強靭(きょうじん)な意志や想像力に於いてある。 例えば、病院で昏睡する母親が初めて意識を取り戻し目覚めるシーン。 アレックスは衛星放送アンテナのセールスマンとしての就業時間以外の大半を母親の介添に費やしている。そんな彼は病室の看護士であるララというロシア娘に一目惚れ、ある日、母親の病室でララを押し倒さんばかりに迫る、正にそんな最中に母親は昏睡から目覚める。顧(かえり)みれば、彼(か)の“札付きアレックス”も当直の医師と看護婦のセックスの最中に意識を取り戻している。 斯様に、両作品に於いては昏睡する者を至近にした男女のセックス、性衝動のぶつかり合いが彼等を目覚めさせる(ように見える)訳だが、それらが、人体の化学反応的道理に適(かな)っているか否か等はともかく、予知困難な“昏睡からの目覚め”の唐突性に映画的迫真を加えているものは昏睡する者の傍に在る男女の性衝動だ。 また、両作品の母と息子の関係に共通するものの一つは互いを突き放す事が出来ない点だと思う。 特に『グッバイ、レーニン!』に於いては、主人公の幼少時に父親が西側に亡命(―詳細は伏せよう)したこともあり、母親は20年以上に亘って他の何者よりも(※例えば主人公の姉に対してよりも)息子アレックスに愛情を注いで止まなかった…。 ****** さて、 『時計じかけのオレンジ』の主人公“札付きアレックス”は自ら志願して凶悪な犯罪者を非暴力体質に変えることを目的とした「ルドビコ療法」の被験者となり、連日注射、投薬を施され、映画館の椅子に拘束され瞼を固定されさまざまな暴力映像を見続けさせられて行く。 一方、『グッバイ、レーニン!』に於いては、TVを観たいと言い出した母親はアレックスが(件の映画狂の友人の力を借りて)捏造した映像をベッドで見続けさせられる…。 おそらくベッカー監督は、 暴力、窃盗、ドラッグ、セックス…に明け暮れ、 過失ではあっても殺人を犯し、 国家権力によって矯正され反体制側にも利用された挙句にも、 自分を歓喜に満たすものの在り処を確信するに至る“札付きアレックス”の強靭な精神性、想像力を本作の二つのキャラクターに生かそうと試みたのだろう。 何にせよ『グッバイ、レーニン!』の二つのキャラクターは、自ら選んだ社会主義の価値観を生き抜いた母親として、国家、親子、家族、個人の激動期を生き抜いて行く若者として、脆さも強靭さも併せ持つ人間性を以(も)ってスクリーン上に目映く輝いている。 映画終幕近く、母、息子、そして家族等が或るニュース映像に見入る。 そこに息子の“捏造”を見抜いたと思しき母親は不意にTVモニターから目を逸(そ)らしチラチラと息子を見遣る、そのいとおしげな眼差し、面差しは僕を甘美な心地に誘う。 映画はドイツの歴史的転換期を背景に主人公の精神的成長を示しながら、何よりもアレックスとクリスティアーネの絆を核に据えた親子の寓話性に収斂(しゅうれん)していよう。 補足) ◆◆本作で主人公のアレックスを演じたダニエル・ブリュールは、本作公開後に、「依頼があれば、ドイツ以外の映画にもチャレンジしたい…」などとマスコミ取材に於いて発言していたはず。僕は、今後さらに脚光を浴びる俳優だと思っています。 また、アレックスの母親・クリスティアーネを演じたカトリーン・ザースは、今後、ドイツ映画が国際的にもっと公開される状況にでもなれば、僕らにも馴染みが増す女優となるかもしれません。 〔※本エントリーは、以下のサイトともリンク中〕 ** グッバイ、レーニン!@映画生活 〔当ブログ内のキューブリック関連記事〕 ■〔映画評Vol.8〕『アイズ ワイド シャット』(1999/スタンリー・キューブリック) >>当ブログ内の「壁シリーズ/壁3部作((^^;」なんぞも宜しければ… ⅰ)■〔映画評Vol.9〕『**********』(200*)(=本エントリー) ⅱ)●〔Pops,Rock雑談Vol.1〕ピンク・フロイド“The Show Must Go On” ⅲ)●〔Pops,Rock雑談Vol.2〕>>『グッバイ、レーニン!』、『ザ・ウォール』に続く「壁シリーズ/壁3部作((^^;」の締め... |
by oh_darling66
| 2005-04-15 23:56
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