◆ 田宮二郎に捧げる-≪白い巨塔(映画版&TV版)≫ |
→◆ 田宮二郎に捧げる-≪映画全般・TVドラマ全般≫は、こちら! 『白い巨塔』… 田宮二郎はふたつの『白い巨塔』に於いて、 「財前五郎」 ―という傑出したキャラクターをものにした。 それは、田宮二郎、その人自身が「自らの代表作」とも口にした、 いまだ魅力の色褪せぬ映画であり、TVドラマでしょう。 僕に取って、 彼の最後の主演作であり遺作と為ってしまった『白い巨塔』(1978―1979/全31話/フジテレビ)をここで端的に、的確に言い表すことは中々難しい。 さてそこで、 田宮二郎に捧げる≪白い巨塔(映画&TVドラマ)≫の始めに、 大映時代の田宮二郎が主演した『白い巨塔』(1966/山本薩夫) について僕が以前に纏(まと)めたものを御披露目いたします。 権威の冷たさに似た温度感の希薄さ… ***ネタバレ注意 ここ劇中群像劇の温度感の希薄さは出色だ。それは国立大学医学部、延いては権威の体質を良く反映したものでもあろう。 この映画を端的に、あるいは詳細に語り尽くす遑は無いが、“白い巨塔”なる、大学病院という象牙の塔を巡る、医師たち、医師の家族、患者、裁判に関わる人々のエゴイズムが醸し出す閉塞の空気感、劇中一貫した冷え冷えとした質感、世界観は、白黒、明暗のコントラストが強い映像の印象と相俟って忘れ難い。 実に多くの人物が画面に出入りする映画であるが、キャラクター造形が簡潔(※残念ながら原作を読んでいないがゆえ“的確”か否かの明言は避けたい…)さに収斂しながら、しかし、画面に登場する者たちの人物像をきっちりと観る者に印象付ける。 その群像劇は正にあれよあれよの150分。過剰感や混乱を観客に抱かせる事など無くドラマとイメージが紡がれて行く…。 田宮二郎によって姿かたちを得た外科医たる技量と自信に満ちた財前五郎のキャラクター性は、劇中一貫して迫力、魅力がほとばしり、僕の視線を奪い、心を掻き立て陶酔させて行く。 財前はある癌患者への検査を怠り死に至らせてしまう。 一人の保険患者の死を前にしても、教授選を争う最中の財前には自らの誤診、怠慢を謙虚に省みる余地など生じない。 教授の地位、権威の座に囚われる財前を演じる田宮の強靭なイメージ、一貫するフォトジェニックさには惚れ惚れするばかり。 正に、田宮演じる財前五郎在ってこその『白い巨塔』という映画の肌理、質感だと信じる一方、大雑把な言い方にとどめるが、滝沢修演じる東都大学(※所謂「東大」を暗喩)教授船尾の品格有る、しかし魔王の如き尊大さこそ、日本医学界なるところの権威体質や諸々の病根を垣間見せ、延いては映画に深みを与えるものに違いない。 ―兎も角、映画後半部の核となる、所謂“誤診裁判”を締め括る、裁判官による鑑定証人尋問に立った船尾教授の証言が為される数分程に亘ってのシークェンスは、滝沢修の演技を擁しての緊張感に漲っており、映画中の圧巻部だと思う。 滝沢扮する船尾の答弁、証言は、鋭利でたゆまぬものだが、その国立大学医学部、延いては日本医学界の一象徴たる姿、知性と品格ある、しかし、ひ弱さの欠片も無い姿から放たれる気迫、迫力は、結局は“冷たさ”に収斂して行くように思う。それは権威(機構)そのものに似ているのかもしれず、それゆえ忘れ難い…。 船尾の答弁、証言は、その終いに架けて強度とスリリングさを増す。 財前の非(※誤診)を責め、医師としての良心の欠如を強い語調で諌(いさ)めながら、物凄い高みに問題をすり替え、国立大学医学部という船尾自らが在る場を守り抜くために、教授職に留まることすら危うくもあった財前を救うのだ…。 証言を終えた船尾の顔は鬼とも魔王とも形容したくなる尊大さが良く立ち現れてもいよう。 <※後日、加筆予定> ◆皆さん、 ここに於きましては、 田宮主演の『白い巨塔』(※映画版、および、TVドラマ版)へのお喋りを お気軽に書き込んでください!! |
by oh_darling66
| 2005-03-20 06:01
| 〔2〕白い巨塔(映画版&TV版)
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